他界した母に代わって娘を預かったのは…
だが現実問題、幼い娘を1人にすることは出来ない。大友の母は他界していた。
全日本入りを諦めようとしていた大友に救いの手を差し伸べたのは、仙台に住む叔母夫婦だった。叔母はこう言って背中を押した。
「美空(みく)(娘の名前)のことは心配しなくていい。美空と離れるのは辛いだろうけど、その分までバレーにぶつけてきなさい」
そんな大友の決断に、常に相談相手になってきた竹下も、ただならぬ覚悟を感じたという。
「子供がいるのに、日の丸を背負うのはすごいことだと思う。離れているのは辛いはずなのに、そんな態度は少しも見せない。だから、コート上でのプレイにも迷いがないんです」
大友が全日本に合流したことで、チームに変化が生まれた。ベテラン、中堅、若手の間に存在していた目に見えない溝が大友の明るさで埋まり、やがて強い絆となって10年の世界選手権では32年ぶりのメダルとなる3位を勝ち取った。
大友の家庭環境を知りつつ、それでも全日本に招集した眞鍋が言う。
「今の全日本がスタートした1年目は、若手とベテランの間に互いに遠慮があった。そこを融和させるには、先輩にも後輩にもストレートにモノを言い、開けっぴろげな性格の大友のような存在が必要と考えた。いわば、チームの潤滑油。スキルの高さもさることながら、チームをうまく回転させるには必要な人材でした」
震災、そして靭帯断裂
久々に全日本のユニフォームに袖を通し、世界選手権を闘った大友は、自信と誇りを取り戻した。バレー人生をさらに濃いものにしたいとロンドン五輪へ決意を新たにしたとき、故郷の風景を一変させる東日本大震災が起きた。
V・プレミアリーグの試合で岡山にいた大友は、震えが止まらなかった。娘や家族の安否が分からない。車で仙台に駆けつけようとしたところ、叔母とやっと電話がつながる。叔母には危険だから絶対に来るなと叱られたものの、アクセルを踏む足を止められず、2日間かけて仙台に到着し、茫然とした。大友が知っている風景はどこにもなかった。感情が消え、色が消えた。
意思のない涙が、次から次へと頰を伝う。寒さも涙の温かさも感じなかった。
感情が甦ったのは、娘の顔を見たときだった。ただただ、抱きしめた。
家族は家が壊れたため、車の中で寝泊りしていた。友人や知人の訃報も届く。バレーなんかしている場合じゃない。そんなことが頭を過(よ)ぎったときだった。娘がポツリと呟いた。
「バレーをしているママが好き……」