昭和天皇全国巡幸にも「熊沢天皇」が…
この年、昭和天皇は2月19日からは神奈川県を最初に全国巡幸を開始。さまざまな要素が重なって情勢が緊迫する中、天皇の存在をGHQと国民にアピールするパフォーマンスだった。10月22日には名古屋を訪れ、市民の大歓迎を受けた。ところが、そこにも「熊沢天皇」が――。
10月23日付朝日には「人波にもまれて動けぬ陛下」の写真付きの記事の下に短く「“熊澤天皇”現は(わ)る」が載っている。
「行幸の22日午後2時すぎ、名古屋市・矢田国民学校正門前へ略式鹵簿(天皇の行列)の後尾の車に、16弁の菊の紋付、羽織を着た人が、2人のモーニングの紳士に付き添われて乗っていた。名古屋市千種区都通り3丁目、『熊沢天皇』と自称している熊沢寛道氏と、『南朝奉戴国民同盟』関東代表・吉田長蔵氏、同関西代表・日尾惇造氏であった。熊沢氏は『ただ対談ができればと思って来た』と語ったが、結局目的を果たさず引き揚げた」
2人の「天皇」が最も接近した一瞬だった。「熊沢天皇始末記(下)」によれば、巡幸の列が熊沢家の前を通ったとき、侍従が指さして「あれが熊沢天皇の家です」と伝えたという。
「熊沢氏の主張は全くのナンセンスである」忍び寄る“賞味期限”
その後は家業を妻に任せて、本拠を京都、そして大阪に移し、1947年に入ると、活動をさらに活発化させたようだ。
朝日の記事に出てくる「南朝奉戴国民同盟」は前年5月に結成したうえ、1947年10月には「正皇党」を組織して総裁に。
玉川信明編「エロスを介して眺めた天皇は夢まぼろしの華である」には1947年10月27日付毎日掲載の「熊沢天皇が新党結成」の記事が紹介されている。大阪・阿倍野区に本部を置き、党員は百余名。「皇統の真正を期すために闘う」「現天皇の退位を求める」「現実的平和国家の再建を期す」の綱領を掲げたという。
しかし、このあたりから“賞味期限切れ”が始まっていたらしい。法制史の第一人者、瀧川政次郎・國學院大教授(当時)は「文藝春秋」1950年1月号掲載の「熊沢天皇吉野巡幸記」で、前年10月末から熊沢と後南朝の旧跡のある吉野に同行した際、熊沢に主張の根拠がないことを懇々と説諭。その結果、熊沢は現地の講演で「私は天皇になろうと考えているわけではない。ただ、南朝の事績を顕彰して、ゆがめられて伝えられてきた日本の歴史をただしたいだけだ」と述べたとしている。
瀧川はその中で、研究者の大勢の見解と思われる論を示している。
憲法にいうところの世襲の天皇とは明治天皇のご子孫を意味するのであって、それ以外の天皇のご子孫を意味しないと解釈しなければならない。神武天皇以来の歴代の天皇が、藤原天皇であろうが足利天皇であろうが、そんなことは問題ではない。主権在民の新憲法下においては、国民が認めてもって世襲の天皇なりとするもの、すなわち世襲の天皇である。現在の日本国民が明治天皇のご子孫以外の皇胤を天皇として認めないことは、国民投票を待たずして明らかである。従って、われに皇位継承権ありとする熊沢氏の主張は全くのナンセンスである……