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「浅草のストリップ劇場に現れ、女体鑑賞としゃれ込んだ」…「熊沢天皇」のその後

 1951年1月、熊沢と吉田は連名で昭和天皇を相手どり、「現天皇不適格確認訴訟」を起こす。しかし2月、東京地裁は「天皇は裁判権に服しない」という理由で却下。門前払いした。これが“ケチのつき始め”だったのか。

 同年には、学術誌「日本歴史」誌上で、渡邊世祐・明治大文学部長(当時)が「熊沢天皇」側が主張する系図や資料を「偽作」と厳しく論難したのに吉田が反論したが、村田正志・東大史料編纂所編纂官補(同)に「俗論」と切って捨てられた。

「天皇」のその後は寂しかったようだ。ある時期まではささやかにメディアに登場していたが、新聞は社会面コラムの俗な話題だった。「東京・板橋の映画館が金詰りによる不入りを何とかしようとアトラクションに担ぎだしたが、観客は至って無関心」(1950年6月29日付読売朝刊社会面コラム)、「大阪の料理店で大暴れして検挙された」(1951年4月21日付毎日朝刊社会面コラム)。極め付きは1954年5月7日付読売朝刊社会面コラム。

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▽南朝の正統を売り物の“熊沢天皇”こと熊沢寛道さんが6日夕、東京・浅草のストリップ劇場に現れ、女体鑑賞としゃれ込んだ。

▽お忍びならぬレッキとしたキクの御紋の羽織、ハカマに山高帽をかぶった“天皇”はストリッパーが振りまく愛嬌に二コリともせず「人民あっての天皇、みんながハダカ踊りを楽しむなら、ワシも楽しもう」と民主天皇論を交えた感想を一席。

▽これは実は某プロダクション製作の浅草を題材にした短編映画ロケのひとコマ。熊沢さんを大阪から引っ張り出して宣伝効果を狙ったもので、人気落ち目の“熊沢天皇”もこの日は六区で大モテ。“御巡幸”気分を満喫しておいでだった。

消息が消えて約10年…夕刊の訃報

 1955年12月22日付毎日朝刊「ニュースの果て」と1957年5月23日付朝日朝刊東京版「ストリートストーリー」はいずれも「あの人はいま」という話題追跡企画。それによれば、大阪の妻子と離れ、支援者である指圧療法師の東京・池袋のマーケットに居候。著書を執筆中ということだった。

路地裏に住み、うどんをすする「天皇」(毎日)

 以後も「腎臓病から奇跡的に回復して日蓮宗に得度。法名は尊熟(たかなり)」(1957年5月29日付朝日朝刊社会面コラム)、「東京都世田谷区の武徳館で(塚原)卜伝流のナベブタの型を披露」(1958年3月3日付毎日朝刊社会面コラム写真付き)。そこで消息はほぼ途絶える。

“熊沢天皇”死す 南朝直系と称して20年

 戦後、南朝の正統だと主張して「現天皇不適格確認」の訴えまで起こした“熊沢天皇”が11日午後3時すぎ、膵臓ガンのため東京都板橋区東坂下2ノ22ノ14の志村橋外科病院で死んだ。

 本名・熊沢寛道さん。さる5月29日に入院して以来、わさ夫人をはじめ家族たちがつききりで看病したが“南朝直系”の主張をついに世に認められぬまま78歳の生涯を終わったわけだ。

「熊沢天皇」が死んだ(朝日)

 1966年6月11日付朝日夕刊社会面は顔写真入りだがベタ記事だった。最期のころは、板橋の日蓮宗道場の居候のような状態だったという。「郷里の愛知県一宮市で盛大な葬儀をするという」と記事にある。