お見合い結婚を夢見ていた河西
当時、日本はまだ9人制のバレーを採用していた。ところが世界の趨勢は6人制。9人制を採用していたのは日本、韓国、台湾、香港のみ。時代は6人制バレーへと移っていた。
日本バレーボール協会の肝いりで、58年に6人制による第一回バレー大会が開かれたものの、選手も大松も、6人制のルールブックを読みながらの出場だった。それでも、日紡貝塚は圧倒的な強さで勝利を収めた。
河西は五冠を達成した時点で、引退を考えた。女性の幸せは結婚。バレーをやっている限り人生の伴侶には巡り合えない。バレーを辞めて実家に帰り、お見合い結婚を夢見ていたのだ。25歳の河西に山梨の両親や兄たちもそう願っていた。
河西より4歳年下の宮本も、バレーを辞めることを考えていた。補欠の時代が長く、自分に見切りをつけようとしていたのである。工場長も大松にそう進言した。
だが大松は、左利きの宮本をオールラウンダーとして育てることを考えていた。不器用な宮本の練習量は人一倍だったが、選手たちは今のように、バレーだけに専念出来る環境にない。朝8時から午後3時まで職場で仕事をこなし、その後に練習をするのが日課である。そのため、人よりも多い練習をこなさなければならなかった宮本は、睡魔との闘いだったと笑う。
「私は入社当時、糸紡ぎをしていたんです。工場はすごく広くて、貝塚市そのものが日紡みたいなものだったから、隅っこで糸が切れたらバーっと走っていって紡いで、また別のところで切れたら走っていく。仕事でもヘトヘトなのに、また練習でしごかれる。歩きながらでも寝てしまう私を職場の友人たちが見るに見かね、会社の近くにあった玉ねぎ畑にゴザを敷(し)いて、仕事中に隠れて寝かせてもらったこともありました」
バレーを辞めれば、睡魔からも解放される。
だがその時、日紡貝塚が6人制で日本一になったおかげで、60年にブラジルで開催される第3回世界選手権に出場出来るという話が舞い込んできた。しかも不慣れな6人制という。
結婚で引退を考えていた河西も、睡魔から解放されたいと考えていた宮本も、新しいことにチャレンジ出来る好奇心と、何より、外国に行けるという夢のようなチャンスを逃す手はないと思いはじめた。外国がずっと、ずっと遠くにあった時代である。