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連載日の丸女子バレー 東洋の魔女から眞鍋ジャパンまで

「バレーを続ける限り、人生の伴侶には巡り合えない」東洋の魔女は“ちょっと背の高い素人”の集まりだった

日の丸女子バレー #9

2022/01/15

source : 文藝春秋

genre : スポーツ

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「ちょっと背の高い素人の集まりだったんです」

 まだ日本のバレーのほとんどの大会は9人制で行われていたため、日紡は9人制の練習を終えた後で6人制の練習をこなした。9人制で前衛のアタッカーをやっていた河西は、セッターのポジションに入った。だが、6人制のセッターは小柄で動きの素早い選手がやるのが定石。チームではもっとも背が高く、動きも緩慢な河西が司令塔をこなすことに、内外から嘲笑や批判が出た。

 大松は動じなかった。6人制バレーではセッターが要。チームの精神的支柱が司令塔をこなすべきだと考えた。河西が笑いながら当時を振り返る。

「誰がどのポジションと言っても、タニ(谷田)以外は名もない選手ばかりだったし、ミヤ(宮本)さんなんて5年くらい補欠だった。つまり皆、今で言うダサい選手ばかり。高校時代に少しバレーをかじったことのある程度の、ちょっと背の高い素人の集まりだったんです」

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女子バレーの黎明期を牽引した選手たち ©文藝春秋

 だからこそ、ゼロから始めるには打ってつけだった。河西が「私たちはみな田舎娘」と言うように、性格は純朴そのもの。素直な性格が大松の指導をみるみる吸収した。

 58年、「野球の長嶋、バレーの谷田」と、大型新人としてスポーツ紙を賑わせていた谷田が、バレーの名門、大阪・四天王寺高校から日紡に入社。後に東洋の魔女のエースとして活躍する谷田は、日紡に入社する気はまるでなかったのに、大松と河西にだまされたのだと苦笑いする。

「私が留守の間に、大松先生と河西さんがウチにいらして母を口説いたんです。家に帰ったら母が『1年間、日紡にお世話になることになったから』って。あんな厳しい練習のチームには絶対に行きたくなかったから、頭にきて母と初めて喧嘩。1年間で帰してもらえるわけがないでしょ、って。年寄りをだますなんてホントにひどいです」

 その翌年、半田が東京工場から転勤。半田もバレー部に属していたが、同じ会社ながら、これほどまでにレベルが違うのかと驚いた。

「何より驚いたのが、練習量。仕事が終わってから夜の11時、12時まで練習するのはざら。日付が変わるまで体育館にいた。これは大変なところに来てしまったと後悔しました。でも、来てしまった以上スタメンになりたい。タニやミヤさんのプレイを見てこれはかなわないと思い、クイックやフェイントのかわす技術を身につけたんです」

 その後、日本の攻撃は読めないと各国を翻弄することになった半田の技術は、チーム内での生き残りをかけて編み出された技だったのである。

 四天王寺高校で谷田の2年後輩の松村は、家が貝塚に近いこともあり、度々練習を見に来ていた。

「もう、河西さんやミヤさんは本当にカッコよかった。ジャージなのに練習着の衿をピシッと立て、毅然とした面持ちでキビキビ動いていた。私もあの人たちと一緒にバレーがしたい。ずっと憧れていたから、タニさんとは違って日紡貝塚に入社したときは小躍りするくらい嬉しかった。大松監督も男前だったし」

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