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作戦を悟られないのはプロの世界では難しい

「戦いにおいては相手に行動を知られないように、悟られないようにせよ」。これが「知りがたきこと陰のごとく」の意味だ。しかし、将棋はポーカーや麻雀と違って確定完全情報(ランダムな要素が存在しない、すべての情報が公開されている)ゲームだ。

 作戦を悟られないのはプロの世界では難しい。しかし、その困難なことを藤井はなしとげている。

 そして先日行われた王将戦第1局。

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 ▲8六歩。

 相手に争点を与えてしまう手で、先程の角銀の連打以上に今までのセオリーからしてありえない手だ。すぐに歩をあわせての継ぎ歩ができてしまう。指導対局でこの手を指されたら、私なら元に戻して「別の手を指しなさい」と言うだろう。それがこの大舞台で盤上に現れるとは、一体なにが起きたのか。

 立会人も解説者も騒然としたのは当然だ。立会の森内は、「何が起きたのか、すぐには分からないくらい衝撃的な手」と驚き、副立会の神谷広志八段は「▲8六歩がいい手だというなら、私が習ってきたことは、すべて間違いだったことになる」と頭を抱えた。

 私が驚いたのは指したタイミングだ。昼食休憩の6分前に指している。通常こういう手は休憩明けに指すものだ。先に手の内を明かしてしまうと、休憩時間に持ち時間を消費せずに考えられてしまうからだ。

王将戦七番勝負第1局より(提供:日本将棋連盟)

指さずに休憩時間にゆっくり考えそうなものだが…

 今から32年前の1990年7月、私は前田祐司七段対東和男六段(いずれも当時)のB級2組順位戦の記録係を務めた。前田はこのとき36歳。順位戦初戦で、C級1組から昇級した19歳の羽生善治竜王に快勝していた。

 先手の前田が相掛かりに誘導し、序盤の駒組が煮詰まった場面。前田は1時間以上考えて、そのまま指さずに夕食休憩に入った。早見え早指しでNHK杯で優勝したこともある前田先生にしては珍しいなと思ったことを覚えている。

 そして休憩あけに戦いを起こし、巧みな指し回しで盤面を制圧する。東も1分将棋になるまで粘ったが、日付が変わった午前0時15分に前田が勝った。消費時間は、6時間の持ち時間のうち前田が5時間56分、東は5時間59分だった。

 私の師匠の石田和雄九段と前田が懇意にしている縁で、終わってから前田に誘われて深夜に紫金飯店に。そこで前田があの長考について語った。

「あそこでね、すぐに仕掛けると相手は休憩時間を利用して考えられてしまう。だから指さなかったんだよ」と。順位戦を戦い抜いた前田ならではの言葉に、21歳のわたしは「プロってすごいな」と思ったことを覚えている。

 そういう意味では、休憩まであと6分のタイミングに、わずか11分の考慮で▲8六歩を指すのはありえない。歩は後ろに戻れない。この手を指してしまったら後には引き返せないからだ。指さずに休憩時間にゆっくり考えそうなものだ。