「福岡では外人の口に合うパンがないというので、毎日神戸からわざわざ取り寄せて出していた」
鬼頭鎮雄「はかた大正ろまん」によれば、捕虜は賓客のような扱いで、将校は日中の外出は自由。料理屋はもちろん、遊郭に行く者もいた。「食事がまた大変なことだった」「ワルデック総督以下将校63名のパンは、福岡では外人の口に合うパンがないというので、毎日神戸からわざわざ取り寄せて出していた」という。「第二次世界大戦を経験した世代の人々には、このような捕虜の待遇は理解できないものがあろう」と「福岡県警察史」は述べている。
捕虜は大阪や名古屋などでも歓迎の大群衆に囲まれた。しかし、「日本軍の捕虜政策」は「例外は福岡だった」と書いている。「青島の攻防戦で多くの犠牲者を出していたこともあって、道の両側に立っていた人たちから侮蔑の言葉や小石が投げられた」と。
「ドイツ兵捕虜と家族」も「ワルデック総督ら青島のドイツ主要幹部が収容されたうえ、当初収容人数が多かったことから久山(又三郎・陸軍中佐)所長の管理は非常に厳しく、任期中の処罰者も多いとしている。青島戦のころの地元紙には、18師団兵士の戦死のニュースがあふれている。
しかし、紙面では「侮蔑の言葉」や「小石」が投げられた光景は見られない。記者が見なかったのか、市民が捕虜を受容する姿に美化したのか。
「敵とはいえ、ずいぶん気の毒な身の上であります」
その捕虜の中にザルデルン大尉もいた。瀬戸武彦「青島(チンタオ)をめぐるドイツと日本(4)独軍俘虜概要」=「高知大学学術研究報告第50巻 人文科学編」(2001年)所収=の捕虜名簿には「Siegfreid von Saldern(ジーグフリード・フォン・ザルデルン)」として次のように載っている。
「海軍砲兵中隊長、海軍大尉(封鎖指揮官・繋留気球隊長)。8月6日、軍艦エムデンが露艦リャザンを捕獲して青島に入港する際、砲艦ヤーグアル搭載の汽艇で迎えて無事入港させた。10月初旬、繋留気球に数回乗り込んで日本軍の偵察を試みたが、周囲の山にさえぎられて目的を果たせなかった」
同論文の青島ドイツ軍部隊編成によると、海軍歩兵第3大隊の砲兵中隊長で左地区を担当していた。
青島陥落から年が明けた1915年1月25日付の読売「よみうり婦人附録」面に「獨逸海相の令嬢は 俘虜大尉の妻 福岡収容所の悲劇」というベタ(1段)記事が載っている。
ザルデルン大尉が「さる6日の午後、最愛の妻と面会を許され、俘虜連中の羨望の的となったという話ですが」と前置き。その後、妻から「門司を引き払って同じ福岡に家を構え、できれば一緒に暮らしたい」と手紙が来た。
大尉は「来てはいけない」と返事を出したが「敵とはいえ、ずいぶん気の毒な身の上であります」と結んでいる。この時点では門司に来ていたようだ。
さらに脱走事件の翌年1916年3月26日付東朝には「父は獨逸新海相 娘は福岡の俘虜夫人」という「福岡特信」の記事が。海軍大臣就任のタイミングで話題に取り上げたとみられる。この段階では既に福岡に来ている。