実際は船での逃走ではなかったが、確かに警備はずさんだったようだ。こうした流れからはイルマの名前が浮上するのは避けられなかった。11月23日付福岡日日の初報は、逃走は同月10日から20日までの間だったとして「将校が5名まで逃走し、しかも、いつだったか逃走の日すら判明せず、1日後に初めて発見されたというような事実は未曽有の大事件というべきである」と収容所の姿勢を批判。
続々報じられる「疑惑」
5人は27~28歳から33歳までの血気盛んな青年将校で、「各将校の間に逃亡しようとの密儀をこらし市外住吉町字簑島、深野別邸にわび住まいしているフォン・ザルデルン夫人イルマが、毎水曜日に夫ザルデルンに面会に来るのを利用し、種々これにも密計を漏らして協議した形跡がある」と書いた。
別の面でも「姿をくらますため、それぞれ軍服を脱いで変装したことは明らかだが、右の変装及び私服の調達方はイルマが万事の手伝いをなしたとのうわさがある」と記述。
以後もイルマが逃亡に手を貸した疑惑を報じていく。11月24日付では見出しでも「内にワ総督の密旨あり? 外にイルマ夫人の應(応)援あり」と報道。引きずられてか、九州日報も同日付で「問題のイルマ」の小見出しを立て、シーメンス社の東京支配人がイルマ方に滞在したことを捉えて同様の疑惑を報じた。
前年に日本海軍高官への贈収賄「シーメンス事件」が発覚していたことも輪をかけたのだろうが、100年以上前とはいえ、うわさをそのまま実名報道するジャーナリズムの人権意識には驚かされる。
イルマ宅を家宅捜索、連行…「気丈なイルマは事実を否定して釈放された」
イルマは11月24日、久留米を訪れ、同じ捕虜の妻7人と会合。これもまた「何事を密談した歟(か)」(11月27日付福岡日日)、「俘虜夫人の會(会)合 久留米にて密談」(11月29日付同紙)と書かれた。12月10日、福岡憲兵隊はイルマ宅を家宅捜索。イルマを連行した。
12月11日付福岡日日は「手提げかばん及び雑記帳のほか、数通の手紙を有力な証拠として押収」と書いている。12月14日付東朝も「イルマの取調 シ社支配人喚問か」と報じている。「福岡県警察史」にはこの疑惑の結末が簡単に書かれている。
「脱走の手引きをしたのがイルマではないかと疑われた。家宅捜索、憲兵の取り調べを受けたが、気丈なイルマは事実を否定して釈放された」
事件はイルマにもショックだったようで、「はかた大正ろまん」は「神経衰弱になってしまい、子どもたちを連れて軽井沢に静養に出かけた」との新聞報道があったと記している。夫との面会も一時禁止されたが、疑いが晴れたということか、約半年後に再開された。
「誰一人、福岡市民で泣かぬ者はなかった」のか?
妻の殺害、夫の自殺という悲劇に、読売新聞西部本社編「福岡百年」は「事件はいくら当局が隠しても、自然に町に流れた。そして、美しくも哀れな夫婦愛に市民たちは同情の涙をしぼったという」と記述。江頭光「ふてえがってえ福岡意外史」も「誰一人、福岡市民で泣かぬ者はなかった」と書いているが、その受け止め方が全てだったとは思えない。
「文明国からの『お客さん』」と大群衆が歓迎したのは一面の国民感情だったが、一方では、異人種に得体の知れない不気味さを感じていたのは間違いない。逃亡事件はその見方に真実味を与えた。