日本軍の捕虜となった青島のドイツの将兵はワルデック総督以下4715人(俘虜番号を付された俘虜)。当初、日本国内12カ所の収容所に収容された。その第1陣として福岡、久留米、熊本の各収容所に送られる1200人余りが福岡県・門司港に着いたのは11月15日。
「青島俘虜来!」「青島俘虜来る」とほとんど同じ見出しの11月16日付福岡日日と九州日報は、いずれも捕虜を載せた輸送船の写真入りで、社会面の大半をつぶして報じている。
記事の中身も「上甲板には将校のみ打ちそろって至極愉快げに私語するさまは大国民だからか、無邪気ではないか」(福岡日日)、「これらの俘虜がガヤガヤとしゃべる声が随所に起こって、そのうるささは言葉にならず、ある者はビスケットをかじり、ある者はパイプをくわえ、悠々としてタバコをふかし……」(九州日報)と、当時の日本人から見れば、捕虜とは思えない陽気で屈託のない表情が描かれている。
「文明国からの『お客さん』」
福岡到着の際、博多駅前には数万人の群衆が集まった。その“歓迎”ぶりを九州日報は次のように記している。
この日、俘虜到着の時間を新聞で知った市民は2時間前、すなわち(午前)6時前から博多駅に押し掛けて行き、景勝の地を占めようとひしめき合い、駅前の広場は真っ黒い人だかり、というよりは、さながら人の海と化し、電車の進行もできないほどになった。駅前より旧柳町に至る沿路十数町の間は見物の群衆で堵を築いている(大勢の人が集まって人垣を作る)中に、駅から呉服町に至る間はことに見物の群衆があたかも潮のごとく、呉服町電車交差点は見渡す限り人の海で、竪町通りまた非常な人出があり、狭隘な竪町通りは、沿路の各戸とも室内電灯のひもを延ばし、軒先に電灯をかざし、俘虜の顔のしわ一つも見逃さないと顔の先に突きつけて見入り、押されて泣く子どもがあれば踏まれて叫ぶ婦人もあり、2階も3階も、見える限り人がいないところはないありさま。
福岡日日はその後「俘虜物語」「俘虜珍談」というコラムを連日のように掲載。九州日報と合わせて、捕虜に関する話題を時には面白おかしく取り上げている。
内海愛子「日本軍の捕虜政策」は、日清戦争から日露戦争、第一次世界大戦まで、日本軍の捕虜となった外国人を取り上げた第1章に「文明国からの『お客さん』」というタイトルを付けている。ドイツ人捕虜についても、多くの日本人にとっての印象は(少なくとも当初は)その通りだったのだろう。
「集まって見物するようなことは、彼らにとって非常な侮辱と不快を感じさせるので注意するように」
板谷敏彦「日本人のための第一次世界大戦史」によれば、日本の陸軍はドイツ陸軍を範としたので、エリート将校はドイツ留学を希望。医学、化学、工学などでも留学生はドイツを目指した。日本人にとってドイツは親しい国だったとしている。
「捕虜に対する待遇は寛大であった。希望者には毎週火・金の2日に午後2時間、市内の引率外出を認め、散歩、買い物をさせたし、日・木曜には郊外散歩と称して郊外に遠出させていた」(「福岡県警察史」)。収容所の高級副官は「市中散歩の際などで物珍しさに集まって見物するようなことは、彼らにとって非常な侮辱と不快を感じさせるので注意するように」などと市民に要請した。