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父の帰国の勧めを振り切って日本に来たイルマ

イルマの父の海軍大臣就任に合わせたニュースも。名前を「カペン」と誤っている(東京朝日)

 同記事には、情報源がどこかは分からないが、2人の軌跡が書かれている。それによれば、カペレ新海軍大臣の愛娘で、美人のイルマには多くの男性から結婚の申し込みがあった。父は、貴族の家に生まれ海軍大学を優秀な成績で卒業したザルデルン大尉に白羽の矢を立てた。大尉は青島に派遣されてイルマと共に赴任。2人の子どもができたが、青島陥落で捕虜に。イルマは父の帰国の勧めを振り切って日本に来た――。

「夫が収容されている須崎裏からさして遠くもない福岡市外住吉町大字住吉に家を借りて住んでいた」(「福岡県警察史」)。4月10日付の新聞にも家や家族の状況が書かれている。

「イルマ夫人は一昨年(1914年)中、夫ザルデルン大尉の後を追って上海より福岡に来たり、1週1度の逢瀬と平和克服とを楽しみに、人里離れた福岡市外住吉町簑島土手の深野別邸を1カ月35円(現在の約12万円)で借りた」(福岡日日)

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「イルマの家は元・愛知県知事(元・福岡県知事)深野一三氏の所有で、(敷地は)那珂川を望む3000坪(約1万平方メートル)以上。大正4年以来借り受け、長男ジェルベスター(11)、次男オルスト(8)、家庭教師ドイツ人ヨハナ・バルクネールらと共に住み、邸内の一棟に厨夫・北條歌三郎夫婦を住まわせていた。凶行当時、長男は帰国し、家庭教師は松山におもむき、家には次男とイルマのみだった」(東日)

「許可を得て週1回、愛児の手を引き収容所に面会に通うイルマの姿に…」

 当時の日本人の感覚からすると、捕虜の妻が夫の収容されている国に来て、定期的に面会することは考えられないが、4月10日付報知で俘虜情報局(捕虜の情報・連絡を担当するため1914年9月に設置された官庁)事務官・篠崎惣太郎中佐は「ドイツ捕虜の細君はだいぶ日本に来ている。久留米に8人、松山に1人、福岡に1人で、その福岡のが先に惨殺されたイルマ夫人である」と語っている。

「夫ザルデルン大尉と琴瑟(きんしつ=琴と大型の琴)すこぶる相和して(非常に夫婦仲がいい)いたことは、はるばる異郷へ、捕らわれの身となっているのを慕って来たことからも知れよう」とも。「許可を得て週1回、3歳になる愛児ベタホルストの手を引き、収容所に面会に通うイルマの姿に同情のまなざしが注がれ、博多っ子の人気が集まっていた」と「福岡県警察史」は書いている。

 新聞報道の人物像とはかなり印象が違うが、新聞がそう報じるようになった原因は、捕虜収容から1年余りたった1915年11月の事件だったと思われる。

捕虜脱走事件が発生「ドンタク騒ぎに紛れて…」

 俘虜五名逃走 海軍少佐ザクセー以下皆将校

 福岡俘虜収容所須崎裏町収容所に収容中だったドイツ俘虜将校、海軍少佐ザクセー以下4名(5名の誤り)がさる13日より一昨20日正午までの間に逃走、行方をくらました大椿事があり、収容所では前記5名の逃走を感づき、にわかに狼狽(ろうばい)して取り調べに従事するとともに、福岡憲兵分隊及び福岡警察署では巡査の非常召集を行い、目下大々的活動を開始し、行方捜索に全力を注いでいる。

捕虜逃亡の第一報(九州日報)

 同年11月22日付九州日報は社会面トップでこう報じた。記事は「ドンタク騒ぎに紛れて」の中見出しを挟んで続く。