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連載大正事件史

夫を追って日本へ…ドイツからやってきた美人令嬢に待っていた“暗転”の瞬間

夫を追って日本へ…ドイツからやってきた美人令嬢に待っていた“暗転”の瞬間

大戦の陰で起きた悲劇の「イルマ殺し」#2

2022/02/06
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 逃走した俘虜は前記ザクセー海軍少佐をはじめ、陸軍中尉ケンペー、海軍中尉ストレーラー、海軍少尉モッデ、陸軍少尉ユンクスラルンの5名。うちケンペー中尉は6尺9寸(約2メートル9センチ)の大男で、ワルデック総督、ザクサー参謀長と共に須崎裏、日本赤十字社福岡支部跡に、また他の4名は物産陳列場跡に収容されていた。彼ら5名の逃走はかねてから計画していたもののようだが、逃走決行の時日は目下のところ詳しく分からない。収容所では13日、俸給を下げ渡しており、当日までは5人とも確かにいたが、20日正午に至り、柳町収容所に収容中の俘虜連5名がひそかに逃走したことを話し合っているのを、収容所所員が感知し、大いに驚いて人員検査をした結果、初めて逃走の事実が確認された。5名はたぶん19日夜か、または20日午前12時(正午)ごろ、福岡の奉祝どんたくの混雑に紛れて須崎裏収容所の裏手から船で逃走したらしいが、いずれの方面へ逃走したかは手掛かりがないようだ。

「彼らは博多駅から堂々と汽車に乗り、逃走した」

 この年の11月10日、大正天皇の即位式があり、各地で祝賀行事が行われた。福岡でも地元名物・どんたくで奉祝してにぎわった。事件はその後も、5人が下関から船で朝鮮半島に渡ったことなど、続報が連日、地元2紙に大きく掲載された。

「福岡県警察史」は「彼らは博多駅から堂々と汽車に乗り、逃走した。モッデ少尉は朝鮮のソウルで捕まったが、他の4人は警戒網を突破して中立国の中国へ逃げおおせた」と記している。

捕虜収容所位置図(「ドイツ兵捕虜と家族」より)

疑われたイルマの関与

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 問題はこの事件でイルマの関与が疑われたこと。既に九州日報の第一報に「獨探の手引説あり」という見出しが立っている。「独探」とはドイツのスパイの意味。約10年前の日露戦争の際、非戦論をとなえるメディアやジャーナリストらに「露探」のレッテルを張って攻撃する風潮が広がった。ドイツが敵国となったこのころには「独探」という言葉が頻繁に新聞に載った。九州日報の記事は――。

 須崎裏収容所すなわち赤十字社福岡支部跡にはワルデック総督、ザクサー大佐以下6名、ほかに従卒6名がいる。また物産陳列場跡にはペートケ中佐以下20余名の将校と従卒20余名がいる。物産陳列場には昨今、毎日午前9時交代で福岡連隊から衛兵司令下士(官)1名、歩哨係上等兵1名、卒(一等兵・二等兵)6名、ラッパ手1名の衛兵が詰めきり、衛兵は1時間ごとに物産陳列場の裏と表に歩哨を立てて警戒している。しかし、ワルデック総督以下を収容している赤十字社跡は昼間軍曹1名、夜間柳町収容事務所から下士1名宿直のために来て場内を1回巡視するだけで、極めて開放的。このほか、事務所から将校1名が巡視するはずだが、昨今は静穏に慣れて将校の巡視を怠りがちではなかったかという説がある。

 もし彼らが船で逃走したとすれば、勝手を知らぬ彼らのことだから、必ず付近に係留してある漁船を盗みにいくはずなのに、付近に船の紛失した形跡がないことをみれば、5名の逃走はかねて計画し、収容所に出入りする俘虜らと知り合いであろう何者かが独探となって手引きし、巧みに逃走させたものだろうとの説がある。