“お家芸”の看板を奪い合う死闘の日ソ戦
日本は、大砲リスカル、機関銃スモレーワの強打をレシーブし切り返すという作戦を立てていたが、その作戦を見透かしたようにソ連はフェイントでポイントを重ねる。しかも、1セット目後半から全くノーマークだった長身のチュリナが出場し、日本の得意の守備をかき乱した。
1−1で迎えた3セット目、小島は20歳の新鋭、白井貴子をコートに送り出した。
白井は決勝までほとんどコートに立っていなかった。この突然の起用を白井が思い起こす。
「小島さんは守備に重点を置く監督だった。その頃私はレシーブが下手だったし、肩も痛めていたので大事な試合で使われるとは思っていなかった」
白井は、日本に初めて誕生した大型選手と言っても良かった。ミュンヘン五輪に出場した選手の平均身長は172センチだったが、白井は180センチもあり、おまけに外国人選手並みのパワーも備えていた。オープン攻撃が出来る選手がやっと日本にも現れたのだ。だが、レシーブ練習が嫌いで、代表合宿中に逃げ出したこともある。松村は笑いながら語っていた。
「小島さんのレシーブ練習は厳しい。私たちはチームで慣れているから何とも思わなかったけど、倉紡の選手だった白井はついていけなかったのかも。練習中に床から起き上がろうとしない白井に、私がバケツで水をぶっかけたこともありました」
松村は、5−13と大きくリードされた時点で白井にトスを集めた。白井は鎖を解かれた猟犬のように躍動してポイントを重ね、11−13まで追い上げる。日本の怒濤の追い上げに、会場の応援は日本一色になった。だがソ連もリスカルが踏ん張り、このセットを奪う。
1−2になって迎えた4セット目。またもや白井がソ連コートに和製大砲を打ち込み、ようやくフルセットに持ち込んだ。4セット目の逆転劇で波に乗った日本は、金メダルが射程圏内に収まったかに見えた。
だが、最終セットのコートに入った6人は、すぐに違和感を覚えた。初めて、セットのスタートからコートに入った白井が、バックの守備位置についていた。
小島が選手のフォーメーションを間違えて審判に提出してしまったのだ。
本来なら白井は前衛レフトからスタートする。しかも、守備が苦手な白井が後衛では、初めから足枷をかけられたも同じだった。