「日本人になった喜びと、全日本に選ばれた嬉しさで顔がほころんでしまった」
ワールドカップ直前に痛めた足首がまだ完治していなかった森山も、五輪にかける決意は江藤や大懸と同じだった。在日韓国人三世だった森山は、全日本のユニフォームを初めて渡されたときの喜びを忘れることが出来ない。
「ホテルのベッドにユニフォームを広げ、1人でニヤニヤしていました。日本人になった喜びと、全日本に選ばれた嬉しさで顔がほころんでしまったんです」
森山は、20歳で日本国籍を取得した。中学の時にオリンピック有望選手に選ばれたものの、韓国籍だったために協会から辞退してほしいと言われた。実業団に入団して1年目、黒鷲旗で活躍し新人賞は確実と目されていたが、賞の規定に「日本人選手として有望な選手」という項目があり、外された。日本人として育った森山は、国籍がバレーボールをやる上でさまたげになるのであれば、変えようと決意した。国籍より、バレーを選んだのである。それゆえ、全日本のユニフォームを着てオリンピックに出場することが、至上の喜びだった。
それぞれが信念と執念、覚悟を持って臨んだシドニー五輪最終予選だった。だからこそ、出場切符を逃した反動も大きかった。
大会終了翌日、江藤が泥のように重い足どりで日立に帰ると、体育館がある敷地の門の前で多治見が待っていた。無言で抱きすくめられた。
「全日本ではキャプテンだったこともあり、負けてもあまり取り乱すことが出来なかった。でも、麻子の胸で、初めて自分の感情をさらけ出せた。声を上げて泣きました」
新聞には「戦犯」という文字が躍った。
葛和は一時、精神を病んだ。女子バレーの伝統を分断させてしまった責任に苦しみ、協会やメディアに追い討ちをかけられたからだ。しかし、それ以上に、選手たちに責任を負わせてしまった事実に耐えられなかった。