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「全日本の意味も分からないうちに戦犯の汚名だけ着せられた」

「負けた責任は僕1人で背負うつもりでした。でもメディアは選手も批判した。それがたまらなかった」

 主将の津雲が当時、竹下、高橋、杉山に申し訳ないことをしてしまったと苦しそうに語ったことがある。

「私たちは3年かけてチームを作り、それで敗れた。責任は十分にある。でも、彼女たちは招集されてたった3カ月。全日本の意味も分からないうちに戦犯の汚名だけ着せられた。それがずっと負い目になっている」

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シドニー五輪最終予選時の津雲博子さん(左)と満永ひとみ(右) ©文藝春秋

 だが竹下は、津雲の考えに反論する。

「みんなから、3カ月は短すぎたといわれましたけど、私は認めたくないんですよ。その3カ月でどうにかしなきゃいけなかったのが、私の仕事なんですから。短期間だったとは言え、結果を出せなかったら意味がないんです」

 竹下はしばらく、葛和とNECの体育館で顔を合わせても、口がきけなかった。葛和が協会の反対を押し切り、自分を抜擢してくれたことを知っていたからだ。

「葛和さんに合わす顔がなかった。心の中で、『葛和さん、ごめん……』と手を合わすしかなかった」

 批判の矛先は主に竹下に向けられていた。「小さなセッターを使うから五輪出場を取り逃がした」という声や視線が、陰に陽に伝わってきた。自分はもう邪魔なだけの存在になってしまったのか。丸めてくしゃくしゃにして捨てられた紙くずのような気分になった。

 疲労骨折を押して出場した大懸は、バーンアウトになった。大懸と竹下は「これ以上、辛いバレーは出来ない」と会社を辞め、バレー界から去る。大懸は実家のある旭川に帰り、スポーツ用品メーカーに勤務。竹下は地元の北九州に戻ったものの、実家には帰らず一人暮らしをしながら、ハローワークに通って職探しを続けた。

 地元に戻り心穏やかに過ごすうち、2人に新たな闘争心が芽生える。

「このままでは終われない……」