吉原知子の“復帰”
「アテネ五輪には必ず出場します」
ワールドカップ8カ月前の2月、全日本女子の監督に就任した柳本晶一は、迷いなくそう宣言した。
しかし、就任会見場に集まった報道陣は苦笑いした。前監督の吉川正博もその前の葛和伸元も、同じように五輪の出場権獲得を目標にかかげ、そして敗れた。監督の手腕というより、ナショナルチームを後方支援する協会の体制が、いまだに尾を引いていたプロ化失敗の後遺症で、磐石ではなかったからである。協会組織が一枚岩にならない限り、誰が監督になっても同じに思えた。
選手の駒不足も深刻だった。ジュニアの育成・強化が手薄になっていたこともあり、世界と互角に渡り合えるパワーや高さ、テクニックを持っている選手は数えるほどしかいなかった。
それでも、柳本は声高らかに宣言した。言い切ってしまうことに意義があった。
「ホントはね、オリンピックでメダルを獲ると言ってもよかったんだけど、初めての席だから控えめにしたんです。勝負の世界で生きるなら、世界のトップを目指すのは当たり前。それが世界で勝てなくなった途端に、アジアで1番を目指すとか、積年のライバルの韓国には勝つとか、目標設定がちまちましてきたために、選手もバレーを取りまく環境も、縮小スパイラルに陥ってしまった。勝負事は常に言い切らないとあかん。言い切ったらそこに向かって全身全霊を注ぎ込み、急な坂だろうが、高い山だろうが、汗をびっしょりかいて登りきることが大事や」