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出離者は寂なるか梵音を聴く
今先生は、なぜ出家するのか、小説をやめるのか、あるいはお前さんは何で食べるのか、どうして暮らすのかなどを一切聞きませんでした。だから私も申し上げませんでした。ただ、
「法名というのをつけなければいけない。法名は師匠の法名の中から一字をもらってつけるのが天台宗の決まりで、今東光という名前は自分の戸籍名でペンネームのようにも使っているが、自分が出家したときの法名は春を聴く春聴だ。お前さんには女だから、春をあげよう、春何とかっていうのにしよう」
とおっしゃいます。私が、
「恐れ入りますが、私はもう春には飽きて出家するんですからできるならば、聴をください」
と言いました。それではまた考えておいてあげるということになりました。
しばらくして、今先生から京都の私に電話がかかってきました。
「法名をいろいろ考えたけれども、聴につくのはなかなかなくて大変なんだよ。それで今朝は思い切って、朝からずっと座禅をしていた。三時間座禅をしたら、そこに寂という字が浮かんできたから、寂聴というのはどうだろう」
私は「寂聴」と聞いたときに本当に素晴らしい法名で、もったいないとも思いました。けれどもすかさず「いただきます」と言いました。
それで、寂聴という名前が決まったわけです。
「寂聴という意味は、どういう意味でしょうか」と伺うと「出離者(しゅつりしゃ)は寂(じゃく)なるか梵音(ぼんのん)を聴く」とおっしゃいました。