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升田は悲願の名人位を奪取し、当時のタイトルを全て独占した

 9歳の息子と遠く離れる母親は、自らの想いを込めて手縫いの将棋盤を持たせた。

 升田の家は中野にあり、桐山は杉並区の小学校へ通うことになった。「当時の内弟子は掃除や家の雑用をするのが当然でした。でも一切そんなことはしなくていいと。升田先生に怒られたことも一度もありません」

 桐山が内弟子に入った1957年4月、升田は塚田正夫との九段戦(十段戦・竜王戦の前身)を制して、王将と合わせて二冠王を達成。3ヶ月後の7月には大山康晴から悲願の名人位を奪取し、当時のタイトルを全て独占した。桐山は自らの師が将棋界の頂点を極めたときに、同じ屋根の下にいたことになるのだが、その頃の記憶がほとんどない。なぜなら……。

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桐山が話すと「お前、なんか変な言葉だな」

 当時の将棋連盟は中野にあり、古い木造の建物で細い階段を登った2階にあった。「初等科というのがあって、奨励会に入る前の子どもたちが通っていました。当時は上の級に米長さん(邦雄永世棋聖)、中原さん(誠十六世名人)がいました。安恵さん(照剛八段)もいてはったかな。あと女流の蛸島さん(彰子女流六段=LPSA所属)。女子はひとりだけでした。でも勝負の相手ですから『女の子もいるんや』くらいの感じですね。私は入ったときは36級でした」

 昇級の楽しさを与えるために、級位が多く設定されていたそうである。

 初等科では強い相手も多く、なかなか勝てなかったが、将棋を指せるだけで楽しかった。一方で、学校での生活には馴染めなかった。桐山が話すと「お前、なんか変な言葉だな」と言われた。昭和30年代初頭、東京の子どもたちには関西弁は馴染みが薄かった。桐山も東京弁がわからないときがある。言葉にコンプレックスを持ってしまって、級友たちと仲良くなれなかった。

毎夜、電話口で「お母さん、帰りたい」

 桐山は兄がいるが歳が離れており、母親は遅くに生まれた弟の清澄をとても可愛がった。まだ9歳の子どもである。友だちができない寂しさの中で、母が恋しくなった。夜になると升田夫人にせがんで、電話を貸してもらう。遠く離れた母につながると、知らず知らずに涙がこぼれた。

「お母さん、帰りたい」

 毎夜、電話口で泣いていた。

 師の升田は少年時代に棋士になるために広島から家出をし、大阪に行って木見金治郎九段の内弟子になった。立志伝を地でいく師からしてみれば、母が恋しくて泣いているような意気地なしでは見込みがないと感じたのだろう。

 桐山自身は升田から直接何か言われた記憶はないが、母親に「里に帰す」と連絡があったそうだ。子どもの気持ちを察しての升田と夫人の計らいだったと思われる。