すべてが将棋漬けの生活だった。東京からきた棋士が時間があると「1局やろうか」と声をかけてくれた。山田道美九段に教えてもらったこともある。棋士の対局が終わると、そばでじっと感想戦を聞き、対局者の思いや読み筋に耳を傾けた。プロの棋譜をいまのように簡単に見ることができない時代、それが記録係にとってのご褒美だった。
塾生になった3年間で、桐山は2級から三段まで上がった。当時の三段リーグは東西で別々に行われて、それぞれの優勝者が四段昇段をかけて対決した。俗にいう“東西決戦”である。プロになれるのは、原則的に半年に1人という狭き門であった。
「常に中原さんの背中を見てきました」
「関東にすごく強い三段がいるらしい。すでに将来の名人と呼ばれているそうだ」
桐山が関西三段リーグ3期目で優勝した頃、東京からそんな噂が聞こえてきた。
「中原さんのことでした。ああ、あのとき初等科におった人やな、と」
二人は同じ1947年の生まれ。かつて桐山が升田幸三の内弟子をしていたとき、3ヶ月だけ通った初等科で一緒だった。
桐山は東西決戦で中原に敗れたが、翌期も関西優勝を遂げて、2期連続優勝の規定により四段昇段を果たした。
「プロになってからは、常に中原さんの背中を見てきました。いつか、追いつきたいと」
中原は“棋界の太陽”と呼ばれ、一気に頂点に昇りつめていく。1967年度に中原が記録した最高勝率0・855は未だに破られていない。また桐山がこの翌年に記録した勝率0・826は、長年にわたって中原に次ぐ歴代2位の記録であった。
桐山は棋戦優勝を遂げるも、タイトル戦では何度も涙を呑んだ。76年の棋聖戦では大山に、81年の名人戦では中原の厚い壁に跳ね返された。そして83年に再び中原に挑戦した十段戦(竜王戦の前身)で、桐山は痛恨の一着を残す。
自信に満ちて指した一手だった
2勝2敗で迎えた第5局は、大阪の羽衣荘で行われた。終盤、桐山は自分が勝ち筋に入ったことを確信した。この一局をものにすれば、中原を角番に追い込むことができる。
(もうじき十段位に手が届く)
そう思った。読み筋通りに指し手が進んでいく。いま思えば、相手が自ら負け筋に飛び込んで来るはずがないと、なぜ疑問に感じなかったのか。もう一度立ち止まって、なぜ読み筋を確認しなかったのか。
自信に満ちて指した一手だった。