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 1学期の終わりに、実家に帰されることになった。升田が名人位を獲得したのが、同年7月11日、第16期名人戦第6局である。この約2週間後、桐山は升田宅を出た。時の三冠王の弟子を辞めさせられたことは、棋士への道を諦めるに等しかった。

肩身の狭い思いをさせると思った両親は…

 東京の升田宅を出された桐山だが、すぐには故郷の下市町に帰ることはできなかった。田舎町では三冠王の内弟子と評判になっている。

「なにせ行くときが行くときでしょ。たくさんの人に応援されて見送られて。それが3ヶ月で帰れませんやん」

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 肩身の狭い思いをさせると思った両親は、しばらくの間、大阪に住む母の妹家族に息子を預かってもらうことにした。そこなら従兄弟が2人いて、寂しい思いをすることもない。叔母の家での生活は楽しく、元気になった桐山は、放課後に難波将棋クラブへと通うようになった。その生活が1年ほど続いた。

 父親は息子の将棋への情熱がいまも強いことを義妹から聞いていた。もう一度、棋士への道を進ませてやれないだろうか。ある日、思い切って息子と大阪・北畠にあった将棋連盟関西本部を訪ねてみることにした。

「初めて会った私を弟子にしてくれました」

 入り口で父親が「こんにちは」と言うと、奥から一人の棋士が出てきた。40代くらいの小柄な人だった。父親がこれまでの経緯を説明した。

 棋士はその話を真剣に聞いてくれた。そして事情を理解した後にこう言った。

「そういうことでしたら、私が師匠になりましょう」

 二人目の師となる増田敏二六段との出会いであった。

第二の師、増田敏二六段と

 桐山は言う。

「増田先生は初めて会った私を弟子にしてくれました。先生が出迎えてくれたのも偶然でした。一度は将棋の道をあきらめかけたのですが、その不思議なご縁でやってくることができたのです」

 増田は1950年に四段昇段してプロになったが、現役生活は9年と短く、桐山に出会ったこの年に引退している。当時、升田門下をクビになった子を弟子にするのは、簡単なことではなかったと思われる。桐山によれば、升田と増田は良好な関係で、増田の方から弟子にすることについて話してくれたのではないかという。そうした流れもあって、升田も桐山のことを終生気にかけていたようだ。

コピー機がない時代なので記録を何枚も書き写す

 桐山は小学5年生のときに7級で奨励会に入会した。その後、中学3年で塾生になる。

 当時は住み込みの“雑用係”が奨励会員から2名選ばれていた。玄関脇の四畳半の部屋で寝泊りをして、朝8時に起きると2時間かけて掃除をする。館内を掃いて、風呂場、灰皿も洗う。盤、駒を磨いてその日の対局の準備をしたあとは、部屋で待機する。棋士に「タバコを買ってこい」と言われれば、走って買いに行く。終局はいつも深夜になるが、コピー機がない時代なので記録を何枚も書き写し、棋士が休む布団を敷いて、部屋の片付けをして1日が終わる。