加害者へのパニッシュメントや告発が主役ではない
#MeTooムーブメントとは、セクシャアル・ハラスメントや性暴力を経験した者同士が支え合い、性被害や性差別の撲滅を目指した人権運動です。しかし、映画プロデューサーや男優による過去のレイプやセクシャル・ハラスメントが告発され、多くの加害者が芸能界から姿を消しただけでなく、権力的な立場を用いて遂行された同意のない性行為に刑事的な措置が適用された事例を見て、#MeTooは「過去に身の覚えのある行為について、上司や著名人がいつ告発されるかを怖がるムーブメント」という間違った捉え方を目にすることもあります。
このような考えには、性被害における加害と被害の非対称性が現れていると感じます。今まで性犯罪やセクシャル・ハラスメントの加害者は、自分の行動がもたらした相手へのダメージを認識する必要もなければ、自分の加害行為に罪として向き合う必要もないような環境が許されていました。
その人のもつ権力性ゆえに被害者が告発をしてもつぶされたり、その周囲にいる人たちも加害者の行為を黙認して実質的に加担しているような環境で、その環境がさらに加害者の行為を助長させる一方で、問題は表面化せずに済む。しかし加害者においては、その加害行為によって長年の間、特段何も影響を受けずに済む一方で、被害者においては、性被害の恐怖と怒りと不安と屈辱の感情を、何十年間も消えないまま抱え続けなければならないことが多いのです。
犯罪を犯した加害者への法的な措置は必要であり、報道されることも大切です。しかし、パニッシュメントばかりがフォーカスされてしまっては、#MeTooムーブメントの目的である性被害や性差別の撲滅を目指した人権運動を進めるためのエネルギーに繋がりにくくなってしまうのではないかと危惧します。
芸能界の告発を見ても、対岸の火事のように感じる人も多いかもしれません。また、性被害を告発する女性を見ても、なかなか我が身のこととして捉えられない人もいるかもしれません。しかし、性被害の撲滅を妨げる要因となっている事象は、実は私たちの日常の中にあるのです。
例えば、人権と尊厳の軽視、構造的女性差別、性に関する認知の歪みは、未だ実社会に蔓延る負の要素であり、社会で生きる一人ひとりの考えや経験に影響を与えているものです。だからこそ性被害の告発というパニッシュメントと同じくらい、これらの要素を本気でアドレス(取りかかる)し、変化を起こすことに社会のエネルギーが注がれてほしいのです。