その点で注目すべきは、4月19日発行20日付やまと夕刊の「電流犯人の罪名は殺人か否か」という記事。
亀戸電殺事件は本邦犯罪史上、全く稀有のことで、果たして犯人がどのような罪名の下に裁かれるか最も興味ある問題というべきだ。それについてある弁護士が語るところによれば、このような犯罪に対する判例はわが国では未曽有のことに属するので、果して司法官がどう処分すべきかは予断の限りでない。ただ、犯人は電気に関する知識があり、常人にはできない装置まで作った以上は、3500ボルトの電流がどんなものなのかもよく知っているはずだ。もしそうならば、犯人がたとえ窃盗の目的をとげるため、自分の安全を期す目的で電気装置を設置したにせよ、彼は、その電線に触れる者があれば必ず死に至るべきことを、もとより予期したことになって、ある不確定の故意を持っていたと認めることができる。この論が当を得ているとすれば、犯人は窃盗の目的をとげなかった点で窃盗未遂罪に当たり、3人が電線に触れて、うち1名が即死、2名が蘇生した点で殺人及び殺人未遂の罪が成立するとみて間違いない。
いまなら「未必の故意」と呼ばれる法理論だろう。やまと、東朝、東日の紙面には明と逮捕した日比谷署員の顔写真が、報知、萬朝報、都新聞には明の顔写真が載っているが、時事新報は、明の写真は他紙と同じだが、「電流犯人護送の光景」の説明を付け、刑事2人に挟まれた構図で載せている。明だけでなく、両脇の刑事も和服なのが時代を感じさせる。
「3000ボルトで死んだことを知っています」
4月20日発行の21日付やまと夕刊には「極めて圖(図)々しい犯人」の見出しで送検後の明の表情を描いた記事がある。
「すこぶる洒々然(ゆったり)として警官に向かって話を持ち掛け、夕食の際などは『こんなちっぽけな弁当は一つでは足りない。代わりをください』などとほざき、一粒も残さず食べ、その大胆なのには警官も舌を巻いていた。尋問の際にも恐れる様子もなく、微笑を含んで逐一自白する憎々しさには署長もあきれるばかりだ。同夜はいびきも高く熟睡する様子は、このような大犯罪を犯した者とも思えない」
これは記事のように捉えるより、まだ考えが子どもっぽくて、自分のしたことの重大さに気づいていないと理解するのが事実に近いのではないか。
同年6月19日に開かれた公判を報じた6月20日付東朝朝刊の記事も「極めて丸々しい、いたずらそうな容貌の小僧だ」と記している。同記事は、満員の傍聴席を前に裁判長と被告山口明の「通俗電氣問答」の様子を伝えている。
裁判長 おまえは電気のことを知っていると言ったが、電柱に赤と黒の色を塗っているわけは?
被告 赤い方が3000ボルトの電力を有し、黒い方はそれより弱いと、人夫をしていたころに工夫から聞いていました
裁判長 赤い方の線に触れれば死ぬということを知っていたか
被告 私が人夫をしていたころ、工夫が3000ボルトの線に触れて死んだことを知っています
裁判長 おまえは活動写真が好きで、始終見に行くそうだね
被告 あまり好きでもないが、折々見に行きます
裁判長 活動写真に泥棒が巡査を電気仕掛けで殺したのを見て感心したというが、事実か
被告 桜川町の福寶館で昨年10月ごろ見ましたが、自分も8月に出獄したばかりの身ではあり、決して感心どころか、悪いことと思いまして中途で出ました
裁判長 おまえははじめから五十嵐の家に忍び入り、窃盗をして見つけられたら、一家ことごとく電気で殺すつもりであったろう
被告 決してそうではありません。工夫らの言うところによれば、板の上なら触ってもけがだけで死なないと聞いていましたから、見つけられて逃げる時の用意にしたのです。こう申しては失礼ですが、いままで随分人の多くいる家に忍び込んでもうまく逃げたほどですから、人を殺さなくても、逃げるぐらいは何でもありません
明はそれほど重要なことを聞かれているとは気づいていないようだ。裁判長の尋問は予審(起訴後、公判にかけるかどうかを判事が決定する手続き)段階での供述を踏まえて、既に有罪と決めているかのようにかなり意図的だ。明は予審で殺意を認めたとされており、この日の公判で否認したことになる。
活動写真(映画)について「捜査資料 犯罪実話集」は、映画館は「芝区の第二福寶館」で、映画は当時大流行のジゴマだったとした。「ジゴマが電気をもって人を殺すに、スイッチを抜き電線を仕掛け、電気を目的地に導く犯罪の手段方法にすっかり興味を覚え、これにヒントを得て、彼は家人を鏖殺して窃盗に入るつもりだった」としている。あくまで警察・検察サイドの見方だろう。