日々なにげなく見てた、あのマンションは実は“レジェンド物件”だった――。全国に16万棟あると言われるマンション。その中でも、新たな流れを作った「記念碑的なマンションたち」がある。

 国内最大級の不動産専門データべースをもとに、不動産鑑定評価から調査まで行う東京カンテイにおいて、33年にわたってマンション市場を調査する井出武氏(東京カンテイ市場調査部上席主任研究員)が、そんな知られざるマンション史について紹介する。

 第1回は、1950年代までに建築された「黎明期の記念碑的マンション」を、写真や間取りとともに挙げてもらった。(写真提供:東京カンテイ。タイトルのカッコ内は「供給年/供給主体」)

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1 同潤会代官山アパート(1927年/同潤会)

 まず取り上げるのは、渋谷区代官山町に建てられた「同潤会代官山アパート」だ。

 1923年(大正12年)に発生した「関東大震災」の後、にわかに生じた住宅難に対処するため設立された内務省直轄の財団法人同潤会が供給主体として建築した賃貸マンションである。すべて賃貸マンションであるが、戦後に多くが払い下げられ、分譲マンションとして中古マンション市場で売買された。

 震災を教訓に火災と地震による揺れでも焼失・倒壊しないよう鉄筋コンクリート造で建てられた。この「同潤会代官山アパート」も、当時は青山アパートメント(現在の「表参道ヒルズ」)と同様に比較的高額な家賃が設定されていた。

 老朽化により建て替えが行われ、2000年、「代官山アドレス」という高級タワーマンションとして生まれ変わった。建て替えには10年以上の歳月を要した大事業であった。

老朽化に伴う再開発のため取り壊される東京都渋谷区の同潤会代官山アパート(1996年10月4日)©共同通信社

 同潤会アパートは建物の不燃化(防火建築)と同時にトイレやキッチンなどの洋式スタイルの導入を果たした。らせん状の階段や丸窓など、施工やデザイン面でモダンな意匠も多く存在したが、残念ながら現在はすべて建て替え等で消滅した。

 この物件は建て替え前でも、バブルのピーク時(1990年)には7億円以上の売り事例が発生していたほどの人気物件であった。