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2022/08/16

source : 文春文庫

genre : ライフ, 読書,

「車の中で待ってることにする」

 僕は車のエンジンを止めました。そして、驚いたのです。「山の静けさ」に。街中で暮らしている僕たちは、普段こんなに静かな環境に立ったことがありません。友人の一人が、かなり明るいLEDライトを持って来ており、辺りを照らしましたが、そんなものでは静けさをかき消すことは出来ませんでした。静かすぎてうるさいというか、静けさに押しつぶされそうというか、とにかく僕は怖くて帰りたい気持ちでいっぱいでした。どうしようかと考えた結果、友人達にこう言いました。

「俺、車の中で待ってることにする」

「なんで」

「それは……もしも対向車が来たら車を動かさないといけないだろ」

「いや、こんな道の向こうから、対向車は来ないでしょ。それにこんな遅い時間に。もしかして怖いのか」

 図星でしたが、もう格好つける余裕はありません。他の友人が、「いや、車の中とはいっても、一人で待つ方が怖いよ」と助け舟を出してくれました。たしかに一人になるのはリスクがありますが、先に進むよりもましかと、車に残ることにしました。友人3人は、僕を残して行くことになりました。

 車のヘッドライトが遠くまで照らしているのに、3人の姿は、すぐに見えなくなりました。

写真はイメージです ©iStock.com

 車に残った僕は、まず音楽を掛け、ルームライトもヘッドライトも付けた状態で、車のロックも掛けました。さらに携帯電話で、お笑い芸人の動画でも見ようとしたその時、携帯電話が圏外になっていることに気が付きました。

 それだけで僕は孤島に取り残された感覚になり、早く友人達が帰って来てくれることを願いました。

車の外に人影が

 相当時間が経ったはずと車の時計を見ると、皆と別れてからまだ数分しか経っていません。嫌な時間は長く感じられると言いますが、この時の僕は、まさに嫌な時間の渦中で一人ぼっちでした。

 まだ帰って来ないかと、時折、車の外を見るのですが、車のヘッドライトが届く範囲以外は暗闇に包まれたままでした。

 何度も外を確認しながら待っていたその時、微かにヘッドライトの照らす先が揺れたように見えました。恐怖心を押し殺しながら目を凝らすと、どうやら人影です。

 ああ、やっと帰って来てくれたか。ほっと一息ついて、その人影を眺めていると、ヘッドライトの光の中へと入ってきました。そこに照らし出されたのは、友達ではなく、一人の年輩の男性でした。

「しまった、車で掛けている音楽が外にも聞こえて、それを注意しに来たのかもしれない」

 僕は慌てて音楽を止めました。