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2022/08/16

source : 文春文庫

genre : ライフ, 読書,

亡くなった男性の最期の言葉

 そして、ご遺族の方が、僕たちにお礼を伝えたいと仰っておられるとのことでした。お焼香もさせて欲しいと思ったので、ご自宅へと行かせていただくことにしました。

 祭壇に飾られた写真には、あの時の男性の顔がありました。

 不謹慎かもしれないと思いつつも、僕は男性と会話をしたことをお話ししました。そして、男性が遺した言葉もお伝えしました。「家族と喧嘩なんかしなければ良かったなあ」と。

 するとご家族の方が話してくださいました。男性は登山が好きで、よく一人で行っていたそうです。しかしこのところ、年齢のせいか、怪我をして帰って来たり、動けなくなって救助を頼むこともあったりで、他人に迷惑が掛かるから、もう登山に行かないようにと、注意されていたそうです。

写真はイメージ ©iStock.com

 しかし、それでも行くというので、家族の方と口論になり、そのまま家を出た結果、それが最後に交わした言葉になってしまったそうです。

 これは僕の勝手な想像ですが、男性は、喧嘩が家族との最後の会話になってしまったことを悔いておられたのではないでしょうか。

「私」を待ち受けた、さらなる恐怖

 それから数日後、今度は明るい時間に僕たちは再びあの山に行きました。

 そして、あの男性が倒れていた場所に、お線香を立てました。

お参りを終えた帰り道、この日は、下の駐車場に車を置いていたので、前回車で通り過ぎた道をゆっくりと降りていました。

 ふと一本の大木に目がいきました。ナイロン袋が結び付けてあり、袋の中には、古くなって色褪せた一枚の紙が入っていました。

「探しています」

 一見して尋ね人だと分かりました。この山では、年間数名の行方不明者がいることを思い出します。

 紙には、行方不明の方の情報が書かれていました。身長、中肉中背、当時着ていた服装。「普段から山が大好きで、山で暮らしたいと言っていた」。

 文字の下に貼られた写真を見て、ぞっとしました。写真は、僕が車に乗っていた時に、最初に声を掛けてきた男性だったのです。

 写真の下に添えられた日付から、間もなく7年。あの男性は、今も大好きだった山で暮らしているのだと思います。

* * *

 昔から、山には神様や魑魅魍魎、山童など、人間とは違う生き物、存在が住んでおり、丑三つ時(午前2時頃)になると里に降りてくるとされています。

 夜の山が怖いと感じるのは、それを知る人間の本能なのかもしれません。ですから私たち人間は、山を畏怖する気持ちを忘れてはならない。私はそう思うのです。

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