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2022/08/16

source : 文春文庫

genre : ライフ, 読書,

「あの、今、大丈夫ですか」

「すみません。実は友達が山から降りてくるのを待ってまして、もう来ると思うんですが……」

「あの、一つ教えていただきたいのですが……私って、もう死んでますよね」

 は? 死んでますよね? 僕の言葉を遮ってまで男性が聞いてきたのは、実におかしなことでした。

「えっ、生きておられますよ」

 僕は反射的に答えましたが、男性は、納得がいかないのか、首を少し傾げています。

「いや、さっき自分の体だけが沢の所に倒れていたんですよ。だから……私、恐らく死んだんですよね。だとしたら、家族と喧嘩なんかしなければ良かったなあ」

 それだけ言うと、男性は山の方へと消えていきました。

友人たちが見つけたのは…

 その男性とほぼ入れ違いに、友人達が小走りで車に向かって来るのが見えました。

「遅かったなあ、今さ、男の人が来てさ……」

「とにかく急いで携帯の電波が入るところまで動いてくれ!!」

 無視すんなよ、と言いたいところでしたが、友人達があまりに切羽詰まった様子なので、僕は急いで車をバックさせ、電波の届くところまで走らせました。

 友人の一人が、電波を拾えた携帯で、すぐに電話をかけ始めました。

「もしもし、警察ですか。〇〇山の沢の所で人が倒れていて、恐らく息をしていないようなんです」

 通報を終えてから、友人達に詳しい話を聞きました。

写真はイメージです ©iStock.com

 真っ暗な中をライトの明かりだけを頼りに、登山口から数分登った。すると、川が流れるような音がしたので、川の方を照らすと、沢の所に緑色のリュックが見える。近くまで行って確かめると、男性が倒れていた――。背丈や体つきなど特徴を聞くと、それはまさに、僕がさっき会話した中年の男性に違いありません。

 ――死んでますよね。

 男性の言葉が蘇りました。

 数日後、警察から連絡が来ました。沢に倒れていた男性は、登山に行って行方不明となり、数日前にご家族から捜索願が出されていました。恐らく山道から足を滑らし、沢で力尽きたのではないか、との説明でした。