日本四大公害の1つ「四日市公害」で、患者らの全面勝訴となった訴訟の判決から50年が経った。当時の公害を知る語り部も、今では3人に。コンビナートの夜景は今では「工場萌え」と呼ばれて人気を集めているが、美しい夜景の裏側には、当時幼くして失われた命もあった。50年前の教訓を語り継ぐ活動を取材した。

「四日市公害裁判」判決から50年…ぜんそくで9歳の娘亡くした女性の思い

 

石油化学コンビナートで発展した、三重・四日市市。今から50年前の夏、津地方裁判所四日市支部は、「汚染物質の排出については、経済性を度外視し、世界最高の技術・知識を動員して防止措置を講ずるべき」という判決を下した。いわゆる「四日市公害裁判」だ。

 

市の中心部にある「四日市公害と環境未来館」で、いま開かれている判決から50年の企画展では、当時、小学生の女の子が書いた作文が展示されていた。

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〈作文より〉
「尚子は(縄とびを)跳ばんとき、咳が出るやで、やめときと言いました」

 

書いたのは、谷田尚子さん。四日市公害によるぜんそくで、わずか9歳で命を奪われた。

 

尚子さんの母、谷田輝子さん(87)。今も、当時のことを鮮明に思い出す。

尚子さんの母親・谷田輝子さん:
疲れるとすぐに(咳が)出るから、どこも連れていけない。何かもさせられない、運動会も出れへんし、かわいそうでしたわ

 

谷田輝子さん:
尚子のことは、しょっちゅう夢に見てますよ。いつも出てくると、「もうじき死ぬ、もうじき死ぬ」という夢ばっかり。必ず言っています

コンビナートから約2キロ、近鉄四日市駅の近くで育った尚子さん。小学2年の時、公害認定患者になった。

 

谷田輝子さん:
いつも言うてました。「なんで私だけがこんな苦しむのか」ということは、しょっちゅう言うてました

 

煙から逃げるように、工場から10キロ離れた菰野町に引っ越した谷田さん一家。尚子さんも徐々に回復したかに見えた。

 

しかし4年生のある日、ぜんそく発作。「お父さん注射して」との言葉を最後に亡くなった。公害裁判の判決から1か月後のことだった。