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もう二度と「公害」という悲劇が起きないように、谷田さんは7年前から「語り部」として三重県内の子供たちに尚子さんの物語を伝えている。

 

谷田輝子さん(語り部として):
四日市がだんだん栄えて、うちも商売しておりましたから、よかったなって。まさか自分の娘がコンビナートにやられるとは、夢にも思っておりませんでした

 

谷田輝子さん(語り部として):
夜になると、工場から煙がどんどん出るようになりました。まっすぐに寝れなくて、いつも布団を前に置いて横になるという、考えられない寝方をするようになりました

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輝子さんが授業で語って聞かせる相手は、当時の尚子さんと同い年くらいの子供たち。髪の長い女の子がいると、みんな尚子さんに見えてしまうという…。

 

谷田輝子さん:
ゆっくり寝られない。だからあの子が亡くなった時に、わたし泣きながら「尚子ちゃん良かったね、ずっと寝られるね」って…

経済が優先された時代…悲劇伝える「語り部」はわずか3人に

 

1960年代から70年代、戦後の復興の国策として三重県と四日市市は「石油化学工場」を沿岸部に誘致。コンビナート地帯となり、石油を原料に、洋服の生地や家電製品の部品など様々な物が作られ、四日市だけでなく日本の経済成長を推進した。

 

一方、コンビナートからの排水で伊勢湾で獲れる魚は油臭くなり、売り物にならない状況に。さらに工場から出る「亜硫酸ガス」で、周辺の住民らが次々とぜんそくを発症。「四日市ぜんそく」と名付けられた。

 

息が吸えても吐き出しにくく、苦しさのあまり自殺する人も…。尚子さんのように発作で亡くなる小中学生もいた。それでもコンビナートの建設は止まらず、経済が優先された時代だった。

 

1967年9月、ぜんそく患者らが原告となり、大気汚染の原因を作った工場に責任の追及と損害賠償を求める裁判を起こした。「四日市公害裁判」だ。

 

そして、50年前の1972年7月24日、患者側「勝訴」判決が下された。国が公害対策へ動き出すきっかけとなった。