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連載明治事件史

「この男を殺せば好きな役者と一緒になれる…」“絶世の美女”をさらし首に追い込んだ悪念

「この男を殺せば好きな役者と一緒になれる…」“絶世の美女”をさらし首に追い込んだ悪念

「夜嵐お絹」事件 #1

2023/01/15
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「あさましい女が色欲界に沈んだからは…」

〈きぬは姓は原田で、父は旧幕府時代、重役を務めた若林佐渡守の家臣で原田大助と称していた。

 きぬが3歳の弘化3(1846)年、暇を出され、(神田)小川町の都筑長三郎に仕えたが、安政5(1858)年、きぬが16歳の時、そこからも暇を出された。娘を抱えた夫婦は売り食いで暮らしに困窮。住居も弓町(本郷)の借家に移ったが、その年に父母とも帰らぬ人となった。

 きぬは叔父の原田周平を頼って養われたが、同年9月ごろ、下谷御徒町に住む元御家人の小林金平の妾にまで成り果てた。小林はそのころどんな仕事をしていたのか、大金をたくわえ、人からも徳があると尊敬されており、きぬも何の不足もないばかりか、衣装、道具、髪飾りまで恵まれた絶頂の生活。「散りてぞ花はめでたかりけり」と人もうらやむばかりだった。

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 慶応3(1867)年の末、京阪地方から不穏な情勢が広がり、翌年春、戊辰戦争が始まったため、小林は小梅村(現東京都墨田区)に転居。同居をはばかって、明治2(1869)年12月、猿若町(現東京都台東区)の寮を借りてきぬを住まわせた。

広重が描いた猿若町の夜景(稲垣史生「江戸の再発見」より)

 人情は抑えるのが難しく、一つかなえばまた一つを望むのは世の常。正邪を計り知らぬあさましい女が色欲界に沈んだからは、身に受けた人の恩恵を打ち忘れ、恩義にもとる煩悩の暗闇に真理の光も陰り、花を吹き散らす。きぬが嵐璃鶴を見初めたのは翌(明治3=1870)年10月上旬のことだった。〉

 女性蔑視の表現が目につくが、下級武士の家に生まれた娘が次々不運に見舞われたすえ、正式な結婚ではなかったものの、生活に不足のない境遇を得た。ところが――というストーリー展開。

別の資料に記されていた「売れっ子芸妓」時代

 小説家・時代考証家だった綿谷雪の「近世悪女奇聞」(1979年)の「夜嵐お絹」の項は、叔父のところへ行ってからのことや時間経過が郵便報知の記事とはだいぶ異なる。

 叔父によって「妾奉公」に出されたが、住んでいた家が焼け出されたため、猿若町の芝居茶屋経営者のもとに身を寄せた。そして明治維新後、26歳のときに「志女屋の小ぬき」という名で芝居茶屋の芸妓に。器量がいいので売れっ子となり、客だった小林金平に見初められたという。読み物などでは、「妾奉公」に行ったのは家督を譲った隠居の大名になっている。

 猿若町は現在の浅草6丁目付近。幕府は天保の改革で各地にあった芝居小屋を浅草にまとめて移し、猿若町と改称した。「江戸三座」と呼ばれた中村座、市村座、森田座があって「芝居町」として繁栄した。

 芝居町には芝居小屋に付属して芝居茶屋があった。「遊里の引手茶屋、相撲の相撲茶屋と同じような一種の劇場の付属機関で、見物のために、今日でいえばプレイガイド、その他食堂、休憩場を兼ねた存在であった」=「講座日本風俗史第6巻」(1959年)。

「芝居茶屋で役者と遊興する様」(「講座日本風俗史第6巻」より)

 猿若町にも数多くの芝居茶屋があった。「芝居のはねた後には、待合と料理屋を兼ね、幕末には『櫓下芸者』という芝居茶屋専門の芸者も出現しており、御殿女中が役者との出会いで事件を起こした絵島生島の場合も、この芝居茶屋が発端を成した」(同書)。

 山本夏彦「無想庵物語」(1989年)は明治時代の芝居茶屋を「華族や銀行頭取の夫人が役者や力士を買う場所である」と書いている。金に余裕がある「有閑婦人」が隣の芝居小屋から役者を呼んで酒食を共にすることはその世界での常識だったようだ。