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正月、病に伏せる小林にきぬは…

〈焦ってもどうしようもなく、一人苦しみながらきょうあすと過ごし、大みそかを迎えた。小林は相変わらず妾宅に泊まって、あすは恵方参りで縁起を祝おうと、きぬと語り明かした。明治4(1871)年の正月元日になると、小林は「気持ちが悪い」と寝込んだまま4日までこもりっきり。

 きぬは「これはいい機会。何とかして片づけよう」とさんざん頭を巡らせて、ふとあることを思い出した。翌5日の早朝、浅草聖天町、高木金次郎方の居候・繁蔵に頼んでネズミ捕り薬2包を買わせ、1包を道明寺の干飯に混ぜて湯を煮立てた。

 病の床に伏している小林のそばに寄り添い、「あまり空腹なのも毒だとか。ちょうどもらった道明寺の干飯の湯など一口召し上がらない」と背中をさすりながら、女が勧める湯。これがこの世の食い納めか。小林の命は風前のともしびよりも危うかった……。〉

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「跡(後)は明日」と9日付の記事は終わっているが、いかにもうまい所で切っている。これでは読者も次が読みたくなるだろう。連載小説のような記事というべきか。

「梨花海棠」とは中国でよく使われる表現で、桜の花が終わったころに咲く梨の花と海棠の花にたとえて「相思相愛」の風情を指すようだ。「悪鬼羅刹」は仏教でいう鬼。

「蕃木鼈(マチン)」は「馬銭」とも書き、ストリキニーネのこと。猛毒で江戸時代はネズミ捕りなどに使われた。古畑種基「法医学ノート」(1959年)によれば、外国では毒殺に使われた例がいくつも報告されているという。

 後に出てくる「ネズミ捕り薬」は「近世悪女奇聞」には「石見銀山」として出てくる。ヒ素を含む鉱物を焼いて作った殺鼠剤で、島根県の鉱山で採掘されたが、近くの石見銀山の名前で全国に広まった。同書によると、ヨーロッパの王族の犯罪にはヒ素がよく使われたほか、江戸時代の加賀騒動でも毒殺に利用された。

「道明寺」は蒸したもち米を干した保存食「道明寺粉」のこと。大阪の寺で作られ始めたことから名付けられた。湯で溶いて「重湯」のようにしたのだろう。7月10日付の記事は次のように続く。

きぬからもらった“薬”を飲んだ小林は…

「きぬ、金平を毒害す」(「新編明治毒婦伝」より)

〈小林の重い枕を少しもたげて、きぬが差し出す干飯汁を何気なく飲み、「食が進まない中、おまえの作り方がいいせいか、すごく甘い」と舌を鳴らし、変わった様子もなかった。その夜遅くなったころから苦しみだし、ことに激しく吐いて一時に疲労が出たが、命に関わるほどでもなかった。

 同月12日、きぬが残った1包を取り出し、医者からもらった散薬だとうそをついて、手に持ち添えて小林の口に含ませ、水を注ぎ入れたのは正午ごろ。たそがれ時分からしきりにもだえ苦しみ、ついにその夜、毒婦の無残の悪計と知るや知らずや、小林は帰らぬ旅路におもむいた。〉