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「恋に狂った妖艶」に言い渡された判決は…

「法務図書館所蔵史料にみる『夜嵐お絹』のことども」によれば、裁判が行われた場所は分からないが、判決言い渡しは、明治4年に司法省内に創設された東京裁判所で行われたとみられる。大正末期から戦前にかけて大審院(現在の最高裁判所)判事を務め、文筆家としても知られる尾佐竹猛が書いた「戀(恋)に狂つ(っ)た妖艶・夜嵐のお絹」=「明治大正史談4」(1937年)所収=には、きぬに申し渡された判決の内容が載っている(原文のまま)。

 其方儀、金平妾身分にて嵐璃鶴と密通(に)および剰(あまつさえ)戀(恋)慕之情彌(いよいよ)増(まして)金平を嫌ひ(い)、鼠取薬と唱候(唱しそうろう)品に而(て)同人を毒害(に)および、病死之趣に仕成(しなし=に見せ)内葬致し、其上、主人貸金可取立(取り立てるべし)と筍助外二人申合(申し合わせ)貸金證(証)文名宛等取直し、或(あるい)は證文取拵(取りこしらえ)る段旁々(かたがた)、右始末重々不届至極に付梟首申し付る

 壬申(明治5年)二月二十日

 梟木の捨札と異なるのは、金銭詐欺未遂の罪状が書かれていることだろう。嵐璃鶴にも申し渡しがあった。

 其方儀、きぬと密通および、其後同人は小林金平妾之旨承(うけたまわ)り一旦相斷(断)る旨は雖申(もうすといえども)尚又度々密通致し、其上きぬ儀、金平を毒殺致す旨申聞(申し聞け)るを其儘(そのまま)打過(打ち過ぎ)候段、右始末不埒(ふらち)に付徒罪二年半申付る

“最期の時”、彼女は突然あることを訊ねた

 お絹の最期は、斬刑に当たった「首斬り朝右衛門」こと山田朝右衛門(9代吉亮)の証言がある。1908(明治41)年7月9日発行10日付報知夕刊に「夜嵐おきぬの處刑 白晝(昼)小塚原の打首」の見出しで掲載されている。要点を記す。

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「首斬り朝右衛門」の回想記を掲載した報知

〈夜嵐おきぬのことを述べましょう。本名は原田きぬ、年齢は28歳でした。元来多情な婦人で、人の妻(妾)になりながら多くの俳優と関係した。獄中で璃鶴の子を宿したため、出産などで斬首の期日が延びまして9月26日、いよいよ処刑と決まりましたが、法規の改正で小塚原の刑場へ引き出し、公衆の面前において斬るということになりました。

山田朝右衛門に斬首されるおきぬ(「夜嵐阿衣花廼仇夢」より)

(小伝馬町の)牢を出る時、女囚連中が別れを惜しみ「お絹さん、未練を残さず往生を遂げなさいよ。これは私たちの志です」と申して、前々から飯粒を固めて数珠をこしらえ、百八煩悩百八顆(粒)紙のこよりを刺し通して渡す。

 それを持って刑場へ出ましたが、別に辞世も何もありません。白紙を半分に折って顔を覆い、荒むしろの上へ座らせる。縄取り(縛った縄を持つ役人)の話に「璃鶴さんはどうしました?」と聞いたそうですが、まさか達者で生きているとも申されませんから「蓮の台(うてな)で半座を分けているだろうよ」(あの世にいるという意味)と言い聞かしたら、涙をホロリと落として「かわいそうなことをしましたね」と吐息を吐いたとやら。

 おきぬの顔はというに、手前の見たところでは、大した美人とも思われなかった。細面ではあったが、色は青白くなって振るいつくほどの女ではない。特にさらすのですから、斬り方も普通とは違います。座りのよろしいように斬ります。時に正午、無事に済みました。〉