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「毒婦」「妖婦」と呼ばれた「小娘」

 人気が爆発した「毒婦夜嵐お絹」の物語はいろいろなメディアで格好の題材となった。1882年の雑誌「近事譚」は、歌舞伎の演目として上演されたとして、そのあらすじを載せている。

 そこでは相手は歌舞伎役者ではなく講談師になっている。その講談でも何人もの講釈師に高座で取り上げられた。スクリーンでは1913年、日活向島撮影所の「夜嵐おきぬ」をはじめ、戦後まで繰り返し映画化された。ヴァレリー・ダラム「明治初期の毒婦物における悪女造型のレトリック その(1)」=「東京経済大学人文自然科学論集」(1990年)所収=はこう指摘している。

 江戸時代でも、何らかの形で社会の掟を破って『悪女』として名を馳せた女性たちがいなかったわけではないが、『新聞』の誕生を契機とし、こうした女性たちに関するニュース性の極めて高い情報は、より速く民衆の間に流布することになった。このように、毒婦物というジャンルの開花を主に可能にしたのは、近世以来の文学形式、そして新しい時代のニュース機関という二つの要因であると思われる。

 その間に次々フィクションが紛れ込み、中には、元の事実とは似ても似つかぬ内容のものも。

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 原田きぬを主役とする殺人事件は、格好の素材として表舞台に引っ張り出され、必ずしも史実に合致しない脚色を付加されて、新たなイメージとともに人々の脳裏に焼き付けられていったと考えることができる。

「夜嵐お絹」は何度も映画化された。1927年帝国キネマ作品の紹介記事(読売)

「法務図書館史料にみる『夜嵐お絹』のことども」はそのように述べ、さらに付け加える。

「そして、それ以後の時代を生きた人々の多くは、事の真実はともかく、明治維新直後の女性犯罪者としての『夜嵐お絹』の名前を長く記憶にとどめることになり、併せて『夜嵐お絹』事件は、明治犯罪史を編むに際し、欠くことのできない一項目となっていったといえよう」

 対して「明治・大正・昭和呪われた女性犯罪」(1965年)で作家・清水正二郎は「夜嵐お絹。その名は高い。第一、夜嵐と上につけば、誰でも何となく、物凄いその道のベテランを想像する。しかし現実には、彼女のやった犯罪はごく小さいものだし、その心情は哀れである」「どうも彼女の場合は、死後につけられた名前が大げさすぎたようだ」と言う。

 読み物の内容からの感想だが、一聴に値する。

「たのみ難き男心をたのんで、一生を無にしてしまった女心は哀れである。彼女の死後、無責任な戯作者たちが情夫の嵐璃鶴をもじって夜嵐お絹などと騒いだが、この本名・原田きぬ、24歳(29歳の誤り)でこの世を去った女は、まだほんの小娘で、決して毒婦だとか妖婦だとかいわれるほどの存在ではなかったのである」

きぬと璃鶴はさまざまに描かれた。東京日日第3号に掲載された一惠齋芳幾画の二人

【参考文献】

▽「新明解国語辞典」第六版 三省堂 2005年
▽山本夏彦「無想庵物語」 文藝春秋 1989年
▽綿谷雪「近世悪女奇聞」 青蛙房 1979年
▽「明治大正史談4」 明治大正史談会 1937年
▽篠田鑛造「明治百話」 四條書房 1931年
▽木下宗一「風雪第3(国難時代)」 人物往来社 1965年
▽伊原敏郎「明治演劇史」 早稲田大学出版部 1933年
▽「明治文学名著全集第5巻」 東京堂 1926年
▽伊藤整「日本文壇史第1(開化期の人々)」 大日本雄弁会講談社 1953年
▽清水正二郎「明治・大正・昭和呪われた女性犯罪」 好江書房 1965年
▽「講座日本風俗史第6巻」 雄山閣出版 1959年
▽古畑種基「法医学ノート」 中央公論社 1959年
▽「明治大正昭和歴史資料全集 犯罪篇上巻」 有恒社 1933年