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事件から7年、新聞が取り上げて…

 事件から7年、お絹の処刑から6年の歳月がたって新聞が取り上げ、草草紙になって人気が爆発した。「近世悪女奇聞」は東日の捨札の記事を挙げてこう書いている。

「右より詳しい詮索は、まだ誰もする者がいなかった。いわゆる『明治の毒婦』という読み物の興味は、まだ当時の市井にはなかったのである。しかるに、6年後の明治11(1878)年1月に出版された久保田彦作・揚州周延画の草双紙『海上新話鳥追お松』(錦栄堂版)第1巻が当たりに当たった。これが毒婦実録物流行のスタートになり、まだ世人から忘れられていなかった数年前の夜嵐お絹の実録が、鳥追お松出版後わずか半年足らずの6月から岡本勘造作・永島孟斎画『夜嵐阿衣花廼仇夢』と題して全8編16冊となって出、これまた大当たりになったため、翌12年2月から高橋お伝の実録草双紙が出、それ以降、キビスを接して毒婦物の実録が、はじめ草双紙、さらにボール表紙本へと移行して輩出することになる」

草双紙「夜嵐阿鬼奴花花廼仇夢」の新聞広告(読売)

 早稲田大教授などを務めた本間久雄は、毒婦ものが当時一般に愛読された原因を「作そのものよりもむしろ挿画である」と言う=「明治初期毒婦物の考察」(「明治文学名著全集第5巻」1926年)所収。

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「至るところにある挿画の血みどろなブラッデー・シーンや春画式のエロチック・シーンが、作そのもの以上に作の内容を説明して、読者の脳裏に毒婦的観念を印象させ、悪魔主義的色彩を印銘させたのではなかったろうか」

 同書は付け加えてこう書く。

「明らかにその時代そのものの影響である。たとえ維新になったとはいえ、台湾の役やら西南の役やら、引き続いて起こる戦乱のために、まだ一般的に世間が血なまぐさく、乱雑で、従って風紀の取り締まりなども行き届かなかったので、性的方面でも、かなり猥褻に流れることが自然でもあった。同時に、人間の本能欲から、その虚に乗じて、今のわれわれが想像する以上の猥褻が行われていたという、その時代そのものの影響である。さらに言葉を換えて言うと、以上の残酷な挿画や卑猥な挿画は、この血なまぐさく乱雑な時代そのものを代弁したものであるともいえるのである」

 伊藤整「日本文壇史第1(開化期の人々)」もこう分析する。

伊藤整 ©文藝春秋

「これらの毒婦物語は明治10年の西南戦争ごろから盛んに読まれていた。西南戦争は一面では明治政府に対する反抗がもはや成功せぬことを人民に悟らせ、政府の人民に対する絶対的な圧力を確立させた。だが他面では、莫大な戦費のためにインフレーションが起こり、商人や農夫が思わぬ収入を得、都会生活の旧士族や俸給生活者の生活は物価高騰で困難になった。戦争の残忍な心理的影響とインフレーションによる生活の大きな変動は、市民たちの生活を乱し、女性たちもその影響を受け、事実上、生活の波に追われて男から男へと移り歩く浮動的な女性が出てきたのである」