以来、現在に至るまでずっと流山市民である(1998年から2002年までロンドンに赴任していたので4年間のブランクがある)。まさか自分の住む街が「6年連続人口増加率日本一」になるとは思ってもみなかったし、「千葉のニコタマ」と言われてもなんだかピンとこないのだが、1つだけ実感していることがある。子供の数がとんでもない勢いで増えているのだ。
あれは2010年頃の出来事だった。
筆者は2002年に流山市に戻った後、小学生の長男が入った地元のサッカー少年団で週末にボランティア・コーチをやり始めた。東京のベッドタウンとして街が発展していた1980年代に作られたこのチームには、最盛期1学年に30人近い子供が集まっていた。小学1年から6年で総勢180人の大所帯だ。
筆者がコーチになった頃はすでに子供の数が減り始め、1学年25人前後、11人制で2チーム組むのがやっとの状態だった。その後も子供の数は減り続け、20人集めるのが精一杯という状況になっていた。
ところが2010年のある時、近隣の大会に参加すると市内のライバルチームの人数が急激に増えていた。
「なんか、いっぱいいるねえ。何人なの」
「いや今年になっていきなり増えて、今48人」
「すげー。ビッグクラブじゃん!」
「いや、なかなか名前が覚えられなくてさ」
流山市には7つのサッカー少年団があるが、ビッグクラブ化したのはTXの駅に近い小学校のグランドを使って練習をしている3チームだった。
年間10~20ヶ所という凄まじい勢いで保育園が新設される
その後も我が家から一番近い流山おおたかの森駅周辺で急ピッチに区画整理が始まった。この前まで雑木林だったところに宅地が造成され、次から次へと新しい道路ができる。1ヶ月もするとすっかり景色が変わるので、地元住民の筆者が道に迷うほどだ。
大半が雑木林と畑だった駅前にマンションが立ち始めた。
「こんなところに、でかいマンションを立てて。人が入るのかねえ」
あの頃、購入しておけばちょっとした小金持ちにはなれていたはずだ。不明を恥じいるばかりである。
前述の通り、その頃から年間10~20ヶ所という凄まじい勢いで保育園が新設された。やがて東武アーバンパークラインの線路沿いは、保育士さんが5、6人の園児を乗せて押す「お散歩カー」のメッカになった。電車が通過するたびに、園児たちが一生懸命に小さな手を振る。東武アーバンパークラインは日本で一番、園児に手を振ってもらえる電車かもしれない。車窓から沿道に向かって手を振りかえしていると、こんな言葉が頭に浮かぶ。
「保育の楽園」
少子高齢化で経済も衰退する一方の日本。しかし本気になればこんな街づくりも可能なのだ。筆者は一市民として街の変貌ぶりを目撃してきた。何をどうすれば、電車に乗るたびに園児たちに「バイバーイ」と手を振ってもらえる、こんな街が作れるのか。経済ジャーナリストの視点でそれを考えたのが本書である。