2019年10月にイギリス東部のエセックス州で、トラックの冷凍貨物コンテナ内からベトナム人密航者39人が遺体で見つかる事件があった。この犠牲者の大半もゲアン省とハティン省の出身者である。しかも彼らのなかには、日本で技能実習を経験してからイギリス密航を選んだ人がすくなくとも2人含まれていた。
かつて1990年代、中国では福建省の出身者がしばしばコンテナ船に乗り込んで日本やアメリカに集団密航していたが、現代のゲアン省やハティン省の密航者たちも似たような存在である。往年に対日密航者が多かった福建省福清市の農村部には、日本で貯めたカネで建てた「出稼ぎ御殿」が数多くあるが、ゲアン省の村でも同様の光景が見られるらしい(『朝日新聞』2019年4月14日付)。当然、中国世界における蛇頭(スネークヘッド)に相当する、密航や人身売買にかかわるマフィアの活動も活発だ。
ゲアン省を中心にタインホア省・ハティン省などの北中部各省は、貧しさや治安の悪いイメージからベトナム国内外の労働市場で出身地差別を受けることがある。実際にトラブルは多いらしく、韓国は2018年から逃亡率が高い地域のベトナム人労働者の受け入れを拒否するようになったが、その際に指定された地域が最も多いのもゲアン省だった。日本の技能実習生の監理団体にも、同様の理由から北中部各省の出身者を忌避する例がある。
「いえでおカネかせぐ人、わたしだけ」
学問で立身出世、出稼ぎで一攫千金、徒党を組んでマフィア化、革命で社会変革──。
ゲアン人たちの行動の理由は一貫している。故郷の社会環境があまりに厳しいので、人々が運否天賦(うんぷてんぶ)の奇跡に賭けて人生の一発逆転を狙いがちなのだ。ゲアンは漢字で「乂安(がいあん)」と書き、世の中がよく治まって穏やかな様子を指す言葉なのだが、名は体を表さぬ地名である。
日暮里のユキもまた、厳しい事情を抱えて日本にやってきていた。
「おうち、おばあさん87さい。おかあさん56さい。しんぞう(心臓)のびょうき。おとうさんいない」
「だんなさんは?」
「りこんした。こども、3さい。いえでおカネかせぐ人、わたしだけです」
ユキは4~5年前に結婚したが、子どもをもうけてからすぐに離婚したようだ。
日本に来る技能実習生のベトナム人女性に、こうしたパターンはめずらしくない。もっとも、本書のジエウや、前著『「低度」外国人材』に登場した元技能実習生のハーが自分の子どもにほぼ無関心に見えたのに対して、ユキは子どもに言及するとき、ちょっとつらそうに目を伏せることが多かった。
いじめる、よくない
他のベトナム人技能実習生の例にもれず、ユキも出国時に1億7000万ドン(日本円で100万円程度)の借金を抱えている。その後、技能実習生として広島県内の介護施設にやってきたことはすでに書いた。彼女にGoogle 翻訳の画面を示しながら会話していく。
──あなたの職場の給料は、安かったですか?
「いいえ。月13万円でした」
瀬戸内海沿岸のカキ打ち水産会社のように季節で月給が変動することもない。技能実習生としては必ずしも悪くない待遇に思える。
──では、あなたはなぜ、仕事を辞めたのですか?