なぜエリートなのに脱北したのか
――北の体制について疑問を持ち始めたのはいつ頃からなのでしょうか?
「長男は幼い頃、病気で苦しみました。北朝鮮の病院ではなかなかよくならなかったのですが、デンマークやスウェーデンの病院に通うと好転しました。北朝鮮の病院の設備や処方とまったく違うことに驚きました。次男はデンマークで出産しましたので、この時も北朝鮮との福祉の違いなどを深く実感しました。
決定的に絶望したのは金正恩の登場です。金日成から金正日に代わってから人々の暮らしはいっそう苦しくなりましたが、金正日は日々、人々を苦しめることはなかった。韓国との経済交流が始まった頃は市場も活性化していて、老いた金正日の代が終われば北朝鮮も変わると願っていました。ところが、2008から09年にかけて、金正恩が金正日と視察を共にするようになり、金氏一家による統治が続くことを知って暗澹たる気持ちになりました。
金正恩は若いので、北朝鮮全国を視察しながら計画もなしに指示をだして、人々を苦しめます。可視的なものを要求したため、国民はみな建設現場などにかり出されました。学生も幹部も労働者と同じです。国家のシステムはこのときから完全に崩壊しました。もう北朝鮮ではいくら努力しても未来がないと思うようになりました」
家族4人が揃ったタイミングで亡命を決意
――亡命するというのは相当な覚悟だと察します。北朝鮮のエリートだった呉さんが他国へ行けば移民、脱北者になり、処遇も変わります。亡命を決心させたものは何だったのでしょうか?
「子供たちには自由を授けたかった。自由が許されない、人間以下の北朝鮮での生活に、多感な時期を欧州で育った子供たちが果たして耐えられるだろうか、そう思うようになっていました。平壌に戻って暮らしていた時も、教師が賄賂(約50ドルなどの金銭)を請求する習慣が当然になっているなど、北朝鮮の学校は腐敗していて、子供たちも馴染めませんでした。
なにより私自身がとても苦しかった。最初の英国勤務が終わって北朝鮮にいよいよ帰国する時にはすでに気が滅入って、怖ろしかったのです。