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 2度目の英国勤務の時は長男を平壌に残さなければなりませんでした(北朝鮮では亡命を防ぐ目的で家族が人質にされる)。ところが、財政難から国が留学生を外国へ送れなくなり、在外公館にいる家庭の大学生は親がその費用を負担する条件のもと、特別に留学許可が下りることになったのです。これは奇跡でした。

 1年の期限つきでしたが、急いで平壌にいた長男をロンドンに呼び寄せました。家族4人が揃った、こんな絶好の機会はありません。最後の機会だと思いました。そう思って夫に北朝鮮へは再び戻らないと告げました」

「亡命したい」と切り出したとき、夫の反応は

――太議員はどんな反応だったのでしょう?

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「2度目の英国駐在の時には毎日、夕方一緒に散策をして、自由についてたくさんの話をしていました。なので、亡命の話を出したときは、夫は肯定も否定もせず、ただ黙って聞いていました。外でしたけど、どこで盗聴されているかわかりませんから慎重になっていたのです。

 ただ、子供たちの教育の話になると、外国に残らなければならないという結論以外ありませんでした。そのうちにいよいよ北朝鮮から長男を国に戻すよう命令が出て、夫は私に訊きました。『脱北しようという私の決心は確かなのか』と。私の気持ちは決まっていました。そのときから夫と私は半年かけて脱北の準備を始めました」

――ご著書は、異母姉妹の話から始まります。異母姉妹の存在も、亡命に影響したとありました。

『ロンドンからやって来た平壌の女』。一家4人がソウルにやって来た様子を描いたイラストが表紙になっている (呉さん提供)

「父は、625(朝鮮戦争)が長期化すると、戦争が終わった後の復興を担う人材として当時のソ連に送られました。そこで高麗人(戦後、旧ソ連地域に移住した朝鮮半島にルーツを持つ人々)の女性と結婚して、子供が生まれました。異母姉です。留学を終えた父は妻と異母姉を連れて平壌に戻り、外務省の国際機構局に勤め始めましたが、妻が高麗人であったことから、仕事から外されるようになったそうです。

 結局、父は金日成への忠誠を選択し、高麗人の妻と娘をソ連に送り返しました。その後、彼女らとの手紙のやりとりも禁じられ、父は彼女らを思って一生、苦しみました。そんな父の姿を見ていましたから、忠誠よりも自由を、子供を選びました」

「帰国者」との恋愛を、両親が猛反発した過去

――お姉さんの存在はいつ頃知ったのですか?

「大学生の時です。平壌外国語大学の英語学科に通っていた時に、ロシア語学科に通っていた男子学生とおつきあいしたことがありました。そのうち彼が日本からの帰国者ということがわかり、母親に迷いながらも相談すると、猛反対に遭いました。党に忠誠を誓うわたしたちが帰国者と恋愛してはいけないと。

 その時に、母は父の高麗人の前夫人と異母姉のことを話してくれました。父のように苦しむことになるというのです。それでも、大学を卒業するまでおつき合いは続いて、母とも口げんかになったりしていたのですが、とうとう見かねた父からも反対されて別れました」

 北朝鮮でいう「帰国者」とは、1950年代から84年まで続いた「帰国事業」により北朝鮮に渡り、永住した在日朝鮮人とその家族(日本人を含む)をいう。当時、北朝鮮は「地上の楽園」と宣伝され、9万人以上が北朝鮮に渡った。