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「相手が歩切れ」が思考の邪魔に

 中盤、里見が飛車を8筋に転進すれば、岡部は中央に飛車を回りと、互いの飛車が逆のポジションに。岡部は中央から突破をはかるが、穴熊を過信したか、攻めがやや強引だった。穴熊は金2枚が残っているが、里見陣も金銀5枚で守っており、形勢の針は里見に傾く。やがて、岡部が銀取りに角を打った。

 これが編入試験の最大のヤマ場だった。

 この角打に対しては、歩を打って利きをさえぎればよかった。岡部は竜を切って迫ってくるが、その後で金を投入する。相手玉は穴熊なのでまだまだ手数はかかるが、間違えなければ勝てる。だが里見は残り12分のうち、2分の考慮で金を打ってしまった……。

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 岡部の駒台には桂1枚しかなく、「相手が歩切れ」が思考の邪魔をしたのだろうか。この金打に対し、銀取りに桂を打ってくれれば「桂先の銀定跡なり」と桂頭に銀を出て受かる。だが、先に角を切ってから桂を打つ手があったのだ。

 金・銀・桂は三すくみの関係にある。金は銀に強く、銀は桂に強い。そして桂は金に強い。金がナナメ前に逃げると空いたマス目に桂を飛ばれてしまう。やむなく里見は角を打って守ったが、岡部はさらに金のナナメ後ろから銀を打つ。守りの要のはずの金が絶好の目標になり、いないほうがましという駒になってしまった。

 プロは相手の弱点を徹底的に突くため、ときに残酷なゲームになる。里見は懸命に受けつづけるが、もはや挽回のチャンスは残っていなかった。

敵玉に必至をかけた局面で、相手が角捨ての王手を掛けてきた

「歩切れの相手に歩を渡すのは嫌だ」「相手が穴熊だから手堅くいきたい」「自陣に金を埋めれば負けにくい」といった、過去の経験やセオリーに、困ったとき頼ってしまうことはよくある。そして、「打ったばかりの角を切ってくるのは盲点になる」ことも。棋士なら誰でも経験したことのある逆転負けではあるが、よりによって編入試験で出てしまうとは……。将棋界は常に筋書きのないドラマを作ってきたが、ここでこれはないだろう。

 棋士になれないかもという恐怖を味わい、年齢制限である26歳の2週間前に棋士になった私は、この将棋について里見さんに聞くことはできない。

 この日の夜、私は奨励会時代の将棋を夢に見た。三段リーグでの矢倉規広(現七段)戦、敵玉に必至をかけた局面で、相手が角捨ての王手を掛けてきた。逃げれば捕まらないことがわかっていながら、手拍子で取ってしまい、9手トン死を食った。詰み上がりで駒が余るので詰将棋ではお目にかかれない筋で、盲点だった。年齢制限が近いのに何をやっているんだと、その日は眠れなかった。

 その数日後、森下卓(現九段)にこのトン死の話をしたら「こんな詰みがあるんですか! 私も見たことがありません。災難でしたね」と慰めてもらったことを覚えている。