里見のプロ編入試験受験は、女流棋士にどう捉えられていたのだろう。
女流王座戦を戦っている最中(4局目の前)ではあったが、加藤桃子女流三段に話を聞く機会があった。加藤は「女流棋士の公式戦参加枠は狭いので、指せる権利を得るだけでも大変なのに編入試験の条件を満たすのはとてもすごいです。私も頑張ります!」と答えてくれた。
棋聖3連覇中の佐藤相手に必勝になったことが話題に
そしてこの件については、この人に聞かなければと思っていた女流棋士がいる。
中井広恵女流六段は北海道出身。私と同じ1969年生まれ、奨励会入会も同期(1983年入会)である。1989年頃から一緒に研究会を行っており、1990年に彼女が奨励会を退会した後も続いた。中井が出産や子育てで忙しかった頃は、夫の植山悦行七段が代打で参加することもあった。主要メンバーは岡崎洋七段、中座真七段、瀬川晶司六段だった。中座と瀬川は、私の1歳年下だ。
中井は、奨励会退会後は女流棋戦で大活躍し、プロ棋戦でも1993年の第5期竜王戦6組で池田修一七段(段位・肩書は対局当時のもの。以下同様)に勝利する。これは女流棋士が棋士に勝った記念すべき第1号となった。2003年には、NHK杯2回戦で当時A級在籍の青野照市九段から金星を上げる。さらに翌2004年のNHK杯では、佐藤康光棋聖をあと一歩まで追い詰めた。残念ながら逆転負けを喫したが、棋聖3連覇中の佐藤相手に必勝になったことはおおいに話題となった。
そして2005年、瀬川が年齢制限で奨励会を退会してから9年半後、中井は瀬川のプロ編入試験で試験官として戦った。
小学6年生で女流棋士に
――中井さんは、上京前はすぐに女流棋士になるつもりではなかったと、以前うかがったことがあるのですが。
中井 はい、そのとおりです。私の親も、師匠の佐瀬勇次先生から「奨励会に入るには上京して内弟子にならないと」と説得されて承服していたので、奨励会に入ると思っていたらいきなり女流棋士になって、驚いていました。
女流棋士になったのは小学6年生。奨励会試験も受けたんですが、そのときは落ちてしまいました。でも、当時は師匠が申請して理事会で了承すれば女流棋士になれたので(※筆者注:当時は女流棋士の人数が少なく、日本将棋連盟は組織の拡大に腐心していた。1981年の小学生名人戦で羽生世代の強い少年たちに混ざって女性初のベスト4に入った逸材を、将棋連盟としてはぜひとも女流棋士にさせたかったという事情があった)。