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「釜石のことは好きじゃなかった。でも…」あの日、津波から避難した中学2年生は地元で“語り部”になった

「釜石のことは好きじゃなかった。でも…」あの日、津波から避難した中学2年生は地元で“語り部”になった

3.11から12年、あの震災の語り部たち #2

2023/03/11

genre : ライフ, 社会, 歴史

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孤立しないよう、峠を越えた先にある旧釜石一中の校舎へ

 高台にたどりつくと、鵜住居保育園の園児たちも合流した。このとき、さらに地響きが鳴った。川崎さんは「余震かな?」と思ったが、津波が鵜住居の街を襲っているのが見えた。街全体が海のようになっていく。

「津波とはわかりましたが、理解が追いついていませんでした。怖いというよりも、驚きでした。さらに高台を求めて、恋の峠まで逃げました。山の上から街を見たときには呆然とするしかありませんでした。その場所で待機していると、孤立するおそれがあったため、開通したばかりの三陸沿岸道路を使って、峠を越えた先にある(廃校になっていた)旧釜石一中の校舎まで行き、避難することになります。

 あとで聞くことですが、恋の峠で私たちが待機していたときに、先生たちが情報収集していて、旧一中が避難所になっていることを知ったのです。行き当たりばったりの避難ではなかったのです」

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被災した釜石東中(左)と鵜住居小(11年7月28日撮影)

震災当時の避難行動を自分なりに検証・分析

 震災当初、釜石東中の生徒たちが自らの判断で避難行動をしていたとも伝えられた。ただ、筆者が当時の中学生に取材した限りでは、その時々の行動を主体的に生徒たちが判断して避難をしたようには思えなかった。卒論のための聞き取りで、川崎さんは、その教員たちが協議して、判断していたことを知ったのだ。

「大学のゼミで防災研究をしていました。地域の役に立ちたいとは考えていたんです。すると、ゼミの教授が授業で釜石の話を始めたのです。震災後のフィールドワークをしていたようです。その教授から『あなたしかできない研究だ』と言われて、私も気になっていたこともあり、当時の避難について調べました。当時の先生や同級生、小学生にも聞き取りをしました」

避難ルートで写真を撮っていた川崎さん(12年3月11日撮影)

 震災当時の川崎さん自身の避難行動を、自分なりに検証し、分析をした。それによって、当時、自分だけでは見えなかったことを知ることができた。その卒論が、今の「トモス」での仕事に役立っている。

「震災前は釜石のことは好きじゃなかったんです。でも、震災で好きという感情が湧きました。この場所をなくしたくないです。それに、仲の良かった友達が引っ越しをしたりしていますが、戻ってきたときに、『おかえり』と言いたいです」

写真=渋井哲也

その他の写真はこちらよりぜひご覧ください。

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