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学校での防災教育のおかげで揺れの大きさから津波を意識

 こうした防災への取り組みには、原体験としての東日本大震災での避難行動がある。2011年3月11日14時46分、バスケットボール部の練習が始まる時間で、川崎さんは準備運動のために体育館内を走り始めていた。当時の釜石東中の場所には、現在、ラグビーW杯の会場となった「釜石鵜住居復興スタジアム」がある。

「体育館には部活メンバーの2年生15人がいました。3年生は引退していましたし、1年生はまだ帰りの会の途中で、体育館にはきていません。2年生だけで走り出していました。そんなとき地震があり、体育館の窓ガラスが揺れていました。しゃがみこんだ記憶があります。1回目の地震で津波がくると思いました。揺れが大きかったからです。そういう感覚は、学校での防災教育で意識づけられていました」

 釜石市は、明治三陸津波(1896年)や昭和三陸津波(1933年)、チリ地震津波(1960年)を経験し、たびたび津波の被害にあっている地域だ。そのため、地震や津波からの教訓を伝える石碑が建っている。釜石東中は、2009年度から本格的に防災教育に力を入れてきていた。

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鵜住居地区には、明治や昭和の津波を知らせる碑がある(11年12月10日撮影)

日頃から鵜住居小と合同で津波避難訓練をしていた

「地域に石碑があることは知っていました。ハザードマップも見ていました。鵜住居小学校や釜石東中学校は(海の近くにあったのに)津波浸水想定区域に含まれていませんでした。当時、『なんでだろう』と思っていたんです。ただ、危なそうだと思ったからこそ、津波から逃げなければならないという意識がありました。先生からも『ハザードマップ通りに思ってはいけない』と言われていましたし」

 古い校舎だったこともあり、川崎さんは地震後に校舎内にとどまるのは危ないと考えた。揺れがおさまると、校庭に行って整列した。別の生徒たちは、すでに昇降口から駆け出していた。釜石東中は、隣接する鵜住居小と合同で日頃から津波避難訓練をしていた。最初の地震で、約800メートル先にあるグループホーム「ございしょの里」まで走って避難した。