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「校内放送は停電で使えませんでした。昇降口から駆け出した生徒たちとほぼ同時に、私たちも『ございしょ』を目指して、同じバスケ部のメンバーと走り出しました。逃げながら『津波がくる!』などと叫んでいました。逃げるという判断は最終的には先生の判断ですが、多くの生徒はフライング気味に走り出していました。

 防災無線が大津波警報を伝えたのは、私が鵜住居小のプール付近に着いたころです。そのタイミングから考えると、地震が起きてから5分で駆け出していました。中学生たちは10分から15分の間で『ございしょ』まで避難していたと思います。学校からの津波避難は、訓練で経験していたので違和感はありません」

より安全な避難場所を求めて小学生も高台まで避難

 このとき、川崎さんは鵜住居小の児童たちの姿はまだ見ていない。

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「訓練では小中学生が一緒に逃げることが原則でしたが、小学生は、中学生が『ございしょ』に着いたあとに合流しました。一緒に逃げた部員とは『あんなに大きな地震だから、(警報通りに)3メートルということはないよね』と話したりしていました。当時はわかりませんでしたが、当時、小学校には校長がいませんでした。教頭は3階にとどまる判断をしていたのですが、その後の行動を話し合っていたときに、消防団が避難をするように伝えました。私の知る限りでは、津波注意報のとき、小学校で垂直避難(上層階への避難)をしたのは初めてでした」

 その後、『ございしょの里』近くで崖崩れがあった。そのことを近所の人から聞いた教師たちが協議した。より安全な避難場所を求めて、機能訓練デイサービスホーム『やまざき』がある高台まで避難する指示を出した。のちに、このときの避難が“釜石の奇跡”の象徴としてメディアで報道され、中学生が小学生の手を繋いで避難した場面の写真が使われた。

現在、鵜住居小、釜石東中、鵜住居幼稚園、鵜住居児童館は高台に建っている(23年3月3日撮影)

先生たちが一緒に避難した中学生に込めた期待

「津波がくると思っての避難ではありません。どうして避難するという指示があったのか、当時の私たちにはわかりませんでした。とりあえず、より高いところに逃げるということになったのです。このとき、小学生と手をつないで避難をしましたが、私も小学5年生の児童の手をつないでいました。児童を励ましていたと思います。こうした時のマニュアルはありませんでした。

 あとで先生たちに聞きましたが、『児童たちの不安が気になったが、先生たちだけではケアができない。また、もし一緒に逃げているときに津波がきたら、中学生が小学生を助けてくれるのではないかという期待を込めていた』というのです。それが当時の最善かつ安全だとの判断だったのでしょう」