前田愛「嗚呼 世は夢か幻か」は「明治日本が富国強兵のコースをひたむきに走り続けた日清戦争から日露戦争にかけての10年間を、女性の歓心を手に入れる能力を唯一の頼りとして生き抜こうとした男三郎の弱性の論理は、強者の論理で覆われていた明治国家のグロテスクな陰画(ネガ)であったといってもいいのである」と分析。
東京監獄署で接触があった思想家・大杉榮は「獄中記」で、男三郎が看守らにごまをすって他の受刑者らに「すこぶる不評判」だったとし、「要するに、ごく気の弱い男なんだ」と記述。
小沢信男「犯罪紳士録」は「野口男三郎」の項で「日露戦争後は失業と煩悶と自殺が流行したのだが、この富国強兵の“栄光の時代”は、裏返せば極めて感傷的な時代にみえる」と述べる。
残された女性たちの“その後”
男三郎は死刑執行当日の弁護士との接見で「一つ心残りのことは娘君子の将来です」と語った。現実はどうだったか。
死刑執行から18年後、「サンデー毎日」1926年6月27日号に「死刑囚の妻として 死にもまさる悩みの廿(二十)年」という曾惠子の足どりをたどった記事が写真入りで掲載された。「臀肉切り男三郎の家」はどこまでも遺族を追い回した。
「家は毎晩のように群衆に包囲され、悪口を浴びせられた。激した人たちに投石され、窓は破られ、門は引き倒され、外出すれば、近所の子どもたちまでが恐ろしい女として曾惠子に当たり、商人の出入りはことごとく断られ、生きることさえ困難だった」(同記事)
引っ越しても身元がばれて2カ月と住むことができず、20年間に100回近く転居しなければならなかった。
曾惠子に投げ掛けられる言葉は「人殺しの妻、鬼の妻」。君子には「父親は日露戦争で名誉の戦死を遂げた」と言っていた。君子は東京府立第一高等女学校(現都立白鷗高校)の入学試験にトップ合格したが、戸籍謄本の提出で家族関係が分かり、入学を拒否された。山脇房子に頼んで山脇高等女学校(現山脇学園高校)に入学できたが、3年生の時、同級生から事件を報じた古新聞を見せられ、愕然として卒倒。それから原因不明の病床に就いて数日後、16歳で世を去った。
記事は、曾惠子は現在、短歌を生きる糧として老母と静かな余生を送っているとしめくくっている。
【参考文献】
▽森長英三郎「続史談裁判」 日本評論社 1969年
▽立川昭二「日本人の病歴」 中公新書 1976年
▽花井卓蔵述「訟庭論草―人肉事件を論ず」 春秋社 1931年
▽前田愛「嗚呼 世は夢か幻か」=「幻景の明治」(朝日選書1978年)所収=
▽藤澤衛彦「明治流行歌史」 春陽堂 1929年
▽西沢爽「日本近代歌謡史 下」 桜楓社 1990年
▽添田唖蝉坊「唖蝉坊流生記」 那古野書房 1941年
▽片野真佐子「皇后の近代」 講談社選書メチエ 2003年
▽小沢信男「犯罪紳士録」 筑摩書房 1980年