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 さらに「まさに、容易に語ることはできない。事件を論ずるのに、私は自分の意見に基づき、彼の供述の多くは採用しなかった。100のうその中で1つの真実を探ろうとした」と。花井自身、男三郎が完全に無実だとは信じ切れなかったということか。

 男三郎には獄中で書いた文章がいくつかあるが、饒舌だが意味不明な内容が多い。

男三郎の筆跡。書相からも「信用できない人物」との鑑定が(「書相学署名編」より)

「思うに、男三郎は無名で堕落した一青年にすぎなかった。それ以上に語る人物ではない。彼が被告となった事件はまさに一大疑獄で、事件研究が細かくなるに従って真相は捉え難くなり、彼自身もまたそれとともに不可解な人物となった」

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 前田愛「嗚呼 世は夢か幻か」=「幻景の明治」(1978年)所収=も男三郎を「小心なうそつき。生活無能力者以外の何者でもない」と言い切っている。

裁判が続き「臀肉事件」が一世を風靡する中である歌が…

 裁判が続き「臀肉事件」が一世を風靡する中で、演歌師の歌う1つの歌が流行し始めた。男三郎が獄中から曾惠子と君子を思い、しのぶストーリー。それを演歌師が1902年に作られた唱歌「美しき天然」のメロディーに乗せて歌った。

 楽しき春

 

 嗚呼(ああ)世は夢か幻か    獄舎(ごくや)に独り思ひ(い)寝の

 

 夢より覚めて見廻(回)せば   四邊(辺)=あたり=静に夜は更けて

 この後「兄君宥(ゆる)し給ひ(い)てよ 妻よ我子よ赦(ゆる)してよ 懺悔(ざんげ)の涙はらはらと」などと延々と続き「夕暮れ告ぐる鐘の聲(声) 諸行無常と告げ渡る」で終わる長歌。

 藤澤衛彦「明治流行歌史」(1929年)は「天竺浪人(神門安治)の『夜半(よわ)の追憶(おもいで)』、一名『男三郎くどき歌』という。当時の社会事件、野口男三郎を取材した叙事演歌であった」と書く。

 西沢爽「日本近代歌謡史 下」(1990年)によれば、「天竺浪人」は誤りで、やまと新聞記者の神門安治が「八雲山人」のペンネームで1908年に出した本「社会教訓 新調夜半の追憶 男三郎獄中の懺悔」が基だった。

 曾惠子から男三郎への「返歌」も演歌になった。有名な演歌師、添田唖蝉坊が作ったとされる「袖しぐれ(野口曾惠子の唄)」。

「桐の一葉に秋ぞ来て 早二月(きさらぎ)は過ぎ去りぬ 獄(ひとや)に在は(おわ)す郎君(きみ)が身は 如何(いか)に淋(寂)しき事ならむ……」

「これは大変な受け方であった。当時演歌者の倉持愚禅は熱情家でもあったが、この歌を流しながら、いつもこみ上げてきて困った、泣きながら歌ったとよく語っていた」(添田唖蝉坊「唖蝉坊流生記」)

「猟奇的な犯罪」に向けられた当時の視線

 不思議に思えるのは、少年殺害、人肉スープという、猟奇的で残虐でおどろおどろしい犯罪の当事者なのに、純愛、悲恋、別れといった美しいイメージで語られ歌われ、それが人々に広く受け入れられたことだ。

 片野真佐子「皇后の近代」は、事件にハンセン病が関わっている点で「当時の人々は、避けもし、厭いもしただろう。それでいて人々は『癩』者という『弱者への負い目』も感じていたのである」と説く。その感情が男三郎を一種のヒーローにしたということだろう。

 ただ、それだけではない。日露戦争で予想外の勝利を得て、日本全体が「右肩上がり」の頂点にあった時代。明治維新以後の近代化が大成功を収めたと信じられていた時期だった。「通訳官」など、事件での男三郎の動きは虚偽だが、日露戦争と濃密に関連している。