「男三郎の人気もモウ落ちた」
判決に対して検察側は控訴したが、東京控訴院は翌1907年7月23日、一審と同様の判決を下した。
1907年6月12日付東朝に控訴審の「公判雑感」が載っている。
「男三郎の人気もモウ落ちた。傍聴人も多いに違いないが、第一審の時や控訴第1回公判と比べるとかなり違う」
「傍聴人に小児はない。老人も少ない。女は案外に多い。しかし、女は無言で傾聴している」
「『そんないい男でもないね』と一人がけなせば、他の一人は『女たらしの第一の資格は容姿よりも口先さ』とかばう。頬骨高く色浅黒く、ヒゲ濃く目がくぼんで、品がいい中に三分のすごみ、なるほどどう見ても立派な悪党である。男三郎の声は情味のある激した能弁。『曾惠子』や『君子』の名を口にする時は涙声にさえなる」
今度は被告側が上告したが、同年10月10日、棄却され死刑が確定した。10月11日付報知によれば、男三郎は出廷せず、朝から平然として読書に余念がなく、禅僧のようだったという。
「たばこ入れには『不幸の男三郎』と記されているという」
10月27日の東朝は男三郎から弁護士宛ての書簡の内容を報道。死の覚悟を決めた一方「君子とその母の将来を思えば愴然(悲しみに心痛む)とならざるを得ない」と心情を漏らし、遺体は医学研究に役立ててほしいと要望している。そして――。
絞首臺(台)上の男三郎 昨日愈(いよいよ)死刑執行さる
名を聞くも隠忍の相、無残の心が思い起こされる稀代の色魔、武林こと野口男三郎は久しく娑婆に未練を断たず、鉄窓の内にもだえていたが、いよいよ昨日(2日)午前9時、監獄から引き出され、典獄代理・西村看守長、小林検事事務係官立ち会いのうえ、死刑執行の申し渡しがあった。本願寺出張の教誨師からねんごろな教誨を受け、同37分、絞首台に上り、同53分、完全に絶命した。
この日、彼は死に装束として以前から準備した白帷子(かたびら)を着て白足袋を履いていた。獄中で自分で作ったこよりのたばこ入れを娘君子に送るよう依頼したほか、2~3通の遺書を残したが、別に遺言はなかった。たばこ入れには「不幸の男三郎」と記されているという。
1908(明治41)年7月3日付東朝の記事。記者の先入観が紛れ込んでいるが、他紙も圧倒的な記事量の時事新報をはじめ、かなり詳しい。しかし、当時の報道の“悪い癖”で、事実の報道より、どう書けば読者に受けるかという読み物の“ノリ”で記事を書いてしまう。
執行の申し渡しを受けた際の男三郎を、時事新報は「別に恐慌の色もなく従容として命を受ける旨を申し立てた」と書いたのに対し、報知は「にわかに一変した態度となってぶるぶる震えだし……」と全く正反対。どちらが本当だったのか。
「何もかも運命です」男三郎とは何者だったのか?
7月4日付國民は、齋藤弁護士が執行当日の2日、豪雨の中、接見したことを報じている。男三郎は「恋も利欲も一場の夢。死刑はさらに恐れない」と語り、「何もかも運命です。言わば引かれ者の小唄でしょう。私は笑って絞首台に上ります。雨は激しい。ああ、私の波乱多い生涯もちょうどこの雨のようでした」と言って言葉を切ったという。
花井卓蔵述「訟庭論草―人肉事件を論ず」(1931年)の中で花井弁護士は要旨として「本編の主人公は言うまでもなく男三郎である。だが、私から彼を見ると、実に不可解な人物である」と書いている。