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結婚後、男三郎は傲慢な態度をとるようになり…

〈男三郎は1899年、東京外国語学校に入学したものの、翌1900年から1902年までの学年度試験にいずれも不合格。1902年9月退校になったが、いまのまま野口家で曾惠子と一緒にいたいため、まだ学校に行っているようにうそをつき続けた。

 1903年には卒業したことになるので、徴兵検査後、「1年志願兵(本人が経費を負担することで兵役3年を1年に短縮できる制度)に行く」と言って家を出て、神奈川県三崎町に下宿。そこの住人の妻と親しくなったうえ、時々上京して曾惠子とも会っていた。

 1904年になって曾惠子が妊娠。男三郎はようやく寧齋に結婚を承諾させて同年7月、挙式した。しかし、寧齋は「1年志願兵」のことも含めて男三郎を疑い、曾惠子を分家して財産は一部を渡すだけにした。そのうえで男三郎に、通訳官として従軍するか、ほかに職を見つけるか迫った。

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 男三郎は傲慢な態度をとるようになり、同年12月、寧齋と口論して家を飛び出した。思い直した男三郎は野口家に戻りたいと思ったが、寧齋は承諾せず、男三郎と打ち合わせた曾惠子が復帰を訴えても頑として応じなかった。〉

 ここからは判決で認定されなかった事実。男三郎は1905年1月下旬ごろ、「寧齋を殺害することがかえって自分の目的を達する近道」と考えた。毒薬を使おうと薬店で硝酸ストリキニーネを購入。寧齋に飲ませるようにと曾惠子に渡したが、言うことを聞かなかった。

 ついに5月12日午前1時ごろ、寧齋宅に侵入。八畳間で手で寝巻のえりをつかみ、脚で胸を圧迫し、頭を強く押さえて窒息死させたという。さらに薬店店主殺しについては次のようだ。

〈寧齋が死んでも、親族は2人を離婚させるべきだとの意向だったが、「通訳官として従軍して時間がたてば」という仲介者の意見もあった。

 男三郎は「通訳官の資格も能力もなく東京を去るには相当の旅費が要る」と考え、面識のあった都築富五郎をだまして殺害し、金を奪おうと計画。5月24日、耳の不自由な富五郎に筆談でもうけ話を持ちかけた。

 午後6時すぎ、銀行から下ろした金を持った富五郎と一緒に外出。代々幡村の路上で両手で富五郎の首を絞めて引き倒し、荒縄で絞殺した。さらに自殺に見せかけるため、木の下に遺体を横たえた。〉

「これが毒悪極まりない殺人犯とは」

 初公判は1906(明治39)年3月29日。「男三郎の公判 秘密の幕は開かれんとす」が見出しの報知を見る。

初公判での男三郎の似顔絵(報知)
萬朝報に掲載された男三郎と判事、検事の似顔絵

 明治の一大疑獄、男三郎事件は昨日午前9時、(東京)控訴院第3号法廷で第1回公判が開かれた。この事件がいかに世人の注目を呼んでいるかは、同日午前2時ごろから傍聴券の交付を請求する者がひしひしと詰めかけ、たちまち定数に満ちたことでも分かる。午前9時の開廷前には、広い法廷も傍聴席に1つも空席が見られなかった。

 

 開廷に先だって法廷に入ってきた男三郎は、多少のうれいの色は見えるものの、強いて平然とした態度を装っているようだった。顔はいたくやつれ、頬骨は高く出ているが、髪はきれいに刈り込まれて、一個の好男子の存在は失っていない。鼻下の八の字ひげのために女を魅了する優しさは薄れているが、そのために一種立派な風采を添えることができている。

 

 身には黒色の奉書つむぎ(元は奉書紙のように純白な絹織物)に抱き茗荷(茗荷を描いた紋)の二つ紋の羽織、赤万筋(赤い細い筋)の銘仙、仙台平(仙台で作られる絹織物)のはかまを着た堂々とした風姿で、これが毒悪極まりない恐ろしい殺人犯とは、と思わせる。

 

 被告席に着き、係りの判事、検事の入廷を待つ短い時間を、居ずまいも崩さずわき目もふらず、右手をはかまの中に入れ、左手を膝の上に置き、悠然として時々裁判官席の方を見上げつつあった。この間、彼の胸中に去来するものは何だろう。