1ページ目から読む
2/8ページ目

 ところが、このあたりの報道は何か歯切れが悪い。その理由は7月4日付時事新報の記事と関連がありそうだ。7月1日に警視庁から「寧齋の墳墓発掘を書けば、新聞紙条例違反で摘発する」と通告があった。

 その後のやりとりで墳墓発掘については報道が認められたが、寧齋の「毒殺事件」の報道に内務省や警視庁が神経質になっていたことが分かる。新聞紙条例は反政府的な言論を抑えるため、明治政府が1875(明治8)年に制定。新聞の発行禁止措置などを定めた。

事件報道に当局から申し入れがあった(時事新報)

 結局、「寧齋毒殺事件」を報じた新聞13社と通信社1社が同条例違反に問われ、うち東朝、報知など5つの新聞が7月14日、寧齋の死因についての疑問や男三郎と曾惠子の予審取り調べ内容などを書いたとして罰金20円を科せられた。

ADVERTISEMENT

新聞紙条例違反で5紙が罰金刑に(東京朝日)

 予審中の事件についての論評は「安寧秩序を乱す」という趣旨だろうか。その結果、報道内容が忖度、自粛され、よくも悪くも踏み込みが甘くなっていたようだ。

「女性と子どもの歓心を買う才能があった」

 1905年12月11日、予審終結。男三郎は(1)少年殺し(2)寧齋殺し(3)薬店店主殺し――の3件の強盗殺人に加えて「官印官文書偽造行使」で公判に付された。

 東京外国語学校を卒業していないのに、卒業証書を偽造して提示した犯罪事実。「続史談裁判」は「男三郎は予審で4つの事件を自白している」と書いているが、そのことを報じた新聞は見当たらない。共犯の疑いでやはり拘留されていた曾惠子は予審無罪となり釈放された。

 予審終結決定書には事件の経緯が詳しく記されており、12月13日付東京二六新聞「附録」に掲載された全文から要点を見ていこう。

事件の予審終結決定書(東京二六新聞)

〈男三郎は大阪の私立学校にいた時、学友の家に寄宿するようになり、1897年4月には学友と2人で上京。学友の叔父で著名な動物学者、石川千代松の麹町区紀尾井町の家に寄宿していた。

 男三郎はかねてから奇智に富み、ことに女性と子どもの歓心を買う才能を持っていた。石川宅の近くに住む野口寧齋の妹、曾惠子はたちまち心を動かされ、同年初夏ごろから情を通じるようになった。

 男三郎はたびたび寧齋とその母に野口家に入ることを望み、ついに1901年初め、同居することに成功。寧齋と母に奉仕したが、寧齋は男三郎を信用せず、男三郎もそれを知っていた。

 寧齋の「宿痾(持病)たる世に厭(いと)う悪疾(悪い病気)にしてその遺伝と感染とともに恐るべきもの」があるのを熟知し、翌1902年、その病毒の治療と予防に力を尽くして恩を施し、自分も利益を得るしかないとして看護に尽力。寧齋も喜び、漢詩で謝意を示した。〉

 男三郎には寧齋の治療以上に、感染が疑われる曾惠子の予防の方に関心があっただろう。ここからは判決で認められなかった「理由」になる。

 男三郎は人肉が寧齋の病気に特効があると聞いていたが、1902年3月上旬ごろ見た本の中に同様の記事があり、俗説を連想した。それで治療や予防ができれば寧齋兄妹の幸福ばかりでないと信じ、近くの子どもを殺し、肉片を切り取って提供しようと決意。機会をうかがっていた。

 3月27日は午後10時前、帰宅中の河合荘亮を後ろから両脇を突き、荘亮の顔面を自分の体に押しつけて鼻と口を押さえて窒息死させた。遺体を路地に運び、用意したナイフで肉を切除。肉は自宅へ持ち帰った。

 翌28日、陶製の鍋とるつぼを購入。船を借りて浜離宮付近まで漕ぎ出し、肉を煮て肉汁を作り、買った鶏肉のスープに混ぜてその夜、寧齋に勧め、曾惠子に飲ませたとした。「寧齋の毒殺」についてはこうだ。