『金カム』からギャグを取り除いたときに見えるもの
個人的には、ギャグという要素を取り除いたときに、『ゴールデンカムイ』には別の読み筋が現れるように思う。すでに述べたとおり、男性的全能性(ファルス)への執着は特に第七師団の男性登場人物たちを動かすためのギミックとして使われており、尾形に典型的に見られるように、彼らの中身はほとんど空っぽである。だが、空っぽであるからこそ、そこに切実さが浮かび上がる。
自分たちが同性間の性的・非性的な関係性に開かれることを忘れながら、男性同士で肉体を傷つけあう男たちには、男性として生きることの苦しみやその苦しさに気づくことさえできずに死んでいく哀しさも垣間見えるように思える。
杉元・尾形のカップリングにはこのような可能性が秘められていて、それがファンたちによって解読されている。『ゴールデンカムイ』の個別の性表現の良し悪しをそれぞれ判断するのではなく、このように作品の複雑さに光を当てることで見えてくるものもあるだろう。
もちろんギャグの前で同性愛的な可能性はすべて物語の本筋から弾き出されてしまうことは軽視できない。このように考えていくと、ギャグの中心にいる脱獄王白石由竹という登場人物の重要性が浮かび上がってくる。
また、男女二元論や異性愛家族主義によって展開する作品構造は、作品内で和人によるアイヌに対する構造的差別を過小評価し帝国主義的な欲望を是認することにもつながっている。鶴見という図像的に男性器を模した登場人物とギャグを担う白石が、どちらも物語の結末部分で大日本帝国の領土の問題に関わる動きをしていることは、『ゴールデンカムイ』という作品を深く理解するために重要である。
こうした議論に興味をもった方は、ぜひ前述の拙論「刺青に突き立てられる刃:『ゴールデンカムイ』における皮膚上の記号作用とギャグの機能」を読んでいただきたい。
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