立野地区では、後に「数鹿流(すがる)崩れ」と呼ばれる外輪山の大規模崩落が起きたほか、多くの箇所で地滑りや土砂崩れが発生していた。
「崩れるかもしれない」。一家は車でコンビニエンスストアの駐車場に逃げ、夜を明かした。そこには何台もの車が避難していたが、コンビニも停電で真っ暗になっていた。
夫の実家は全壊と判定された。
古本屋が避難生活の「逃げ場」となる
中尾さん夫妻は、隣の大津町にアパートを借りていたので、5人がそこで暮らすことになった。が、あまりに狭い。たこ焼き屋は立野地区と大津町に店があり、大津町の店舗の敷地内にプレハブを建てて、夫妻だけ移った。薄い金属板一枚の壁なので、夏は灼熱の暑さになる。冬はしびれるほど寒かった。
二つあった店のうち、立野地区の店舗は営業できなくなった。大規模崩落で埋もれた国道57号線沿いにあり、ちょうど車がUターンする辺りだったので、たこ焼きどころではなくなったのだ。駐車場には復旧事業に携わる国土交通省の出先事務所が設けられた。
従業員は解雇するしかなかった。残った大津町の店舗を家族だけで切り盛りした。
「すごく忙しくて、遮二無二働くという感じでした」
失われた日常。ハードな仕事。過酷な避難生活。中尾さんは気持ちに余裕がなくなっていく。
「普通の生活を取り戻したい。自分のリズムに戻したい」。切実な願いだった。
そうした時の「逃げ場」となったのが、駅舎の古本屋だ。
駅舎は頑丈で、地震にびくともしなかった。本震が起きた夜には近所の避難所になったほどだった。
多忙なたこ焼き屋を離れて、週に2日だけ古本屋に向かう。そこには全く異なる時間が流れていた。ホームの向こうに田んぼが広がる。優しい風が吹く。そうした中で古本に囲まれていると、落ち着いた。
知り合いになった近所の人が世間話に訪れる。南阿蘇村に移住してきた人々も、本が読め、中尾さんと話ができるとあって、寄ってくる。店に来た人同士で新たな出会いが生まれる。
そうした人のつながりにも癒され、中尾さんは次第に自分を取り戻していった。
「南阿蘇鉄道は必要か」率直な問いに対して住民の回答は…
残念なのは、駅が不通区間となり、仲良くなりかけていた高校生と会えなくなったことだ。名前も住所も知らない。きちんと通学できただろうか。もう就職しただろうか。「もし、地震がなければ、古本屋にも、私にも、違った展開があったのだろうなと思います」。
村内では南阿蘇鉄道が廃線になるのではないかという噂が流れていた。中尾さんは「あまり乗客がいなかったので、廃線になっても仕方ないのかな」と思う部分もあった。もちろん本音では、営業を続けてほしかった。
被災から1年が経過する頃、南阿蘇地域の全世帯にアンケート調査が行われた。
「南阿蘇鉄道は必要か」。この率直な問いに対して、86.9%が「必要」と答えた。「必要だと思わない」は6.8%しかなかった。車社会化が進んでいるのに、これほど多くの世帯が必要と考えている地区は珍しいのではあるまいか。
必要と考えた理由を尋ねると、「自分の世帯が日常生活を送る上で必要」という直接の受益者の回答は22.8%しかなかった。