「人間をやめないと無理ですよ。勝てないです」
慌てて控室に戻ると、佐藤も森内も驚いている。森内が「検討はしていましたが、本当にやるとは思わなかった」と言えば、佐藤も「私が言うのもなんですが(笑)、真似しない方がいいです」。
またたく間に永瀬の駒台に角と金が追加される。一方、藤井は玉近くにと金を作ったものの、駒台には歩のみ。AIの表価値は先手に傾いているが、控室も、そしてABEMA中継ほか大盤解説会の棋士たちも「これで良いと言われてもピンとこない」と思っていた。
藤井には誤算があった。金2枚をはがしても永瀬玉は耐久力があったこと、そして永瀬の胆力についても。
控室では8六の銀をさばく手が第一感と調べていたが、永瀬はなかなか指さない。扇子でしきりに頭を仰ぎ、記録係にエアコンの温度を下げるように伝える。対局室は冷房をガンガンにきかせていたけどなあ……。
やがて、玉から離れた左の桂頭に△8八歩と打った。ここでこの手が指せるとは、と感嘆の声があがる。さあ攻めていらっしゃい、どんな球が来ても全部カットするから。打ち返すから。
本局前、永瀬はABEMAのインタビュー動画で「藤井七冠のすごみ、すごさを一番知っています。倒れるほどやらないとだめだと思います。人間だと藤井七冠に勝てるとは思えないですよ。人間をやめないと無理ですよ。勝てないです」とまで語っていた。「人間をやめないと」と。そうか、この手を指すために努力したのだな。
攻めの銀を遊ばせたままでいいのか。
玉から遠いところを攻めてて間に合うのか。
手を渡して藤井に攻めさせて怖くないのか。
そんな恐怖心や先入観や気の迷いを、人間的なものを、藤井に勝つために、すべて捨てようとしてきたのだ。
ずっと確実な手しか指さなかった永瀬が踏み込んだ
75手目、藤井は2四の銀を1筋に追って、さらに1筋の端歩を突き捨てる。佐藤が「突き捨てを入れ損ねて後悔することもよくあるけど、突き捨てを逆用されて後悔することもあるんだよなあ」とつぶやき、皆うなずく。
永瀬はついに△8九歩成と桂を取り、さらには香も取った。佐藤や私ら50代は「駒得は裏切らない」派。ABEMA解説の渡辺明九段は「時間がないときは現物、駒を取っておけ」と言っていた。時間がないときにあわてて決めにいくと危ないからだと。なるほど。
藤井がと金の下に歩をつなぎ、中央に6枚のスクラムができた。またも手を渡す藤井。羽生との王将戦七番勝負以来、手を渡す組み立てが増えた。