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検討している棋士からも逆転といった感想はなかった

 藤井は、終局直後は悔しそうな表情をしていたが、すぐに笑顔になった。マスクで口元は見えないものの、目尻だけで永瀬との会話を楽しんでいるのがわかる。そのうち例によって口頭だけの感想戦になっていく。何を言っているかまったくわからないけど、楽しそうだなあ。6年もこれを続けているんだなあ。永瀬は藤井の▲5六銀上に、藤井は永瀬の△8八歩に感嘆していた。互いが互いを認めていた。

 いつもなら「もうそろそろ」と関係者に言われるまで感想戦を続けているが、今回は珍しく永瀬が察してか、「たった」50分で感想戦を終えた。終局まで100手以上も微動だにしなかった8六銀と7六歩が崩され、駒箱にしまわれる。あの攻め駒が残っていたのは、暴発しないで藤井の攻めを丁寧に受け続けた永瀬の胆力を象徴していたのではないか。両者深く頭をさげて戦いが終わった。

©杉山拓也/文藝春秋

 記録係の廣森航汰三段に聞くと、「両先生とも自信があるというようには見えませんでした」ということだ。ついでにエアコンについても聞くと「設定が23度でしたが、1度下げてと言われ、22度に下げました」。2人とも頭脳をフル回転させていたんだねえ。

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 感想戦の2人の様子を見る限り、藤井は良いとは思っていなかったし、永瀬もさほど悪いとは思っていなかった。佐藤は「2人の波長はあっているんですねえ」としみじみと語る。

 本局は「藤井の逆転負け」と書かれるのだろう。たしかに評価値の変動だけを見ればしかたないが、内実はそうではない。当事者だけでない。検討している棋士からも逆転といった感想はなかった。藤井に悔やむ手があったのは確かだが、永瀬の勇気あふれる決断と、粘り強い受けと、そして自陣飛車を褒め称えるべきなのだ。

©杉山拓也/文藝春秋

「感想戦での藤井さん、良い笑顔でしたよね」

 午後10時30分すぎ、帰りの電車を待っていると各新聞社の記者、カメラマンも乗り込んできた。棋聖戦の担当記者は「となりの駅の宿を予約してまして。去年の棋聖戦で第1局が千日手2回だったでしょ(終局午後9時42分)。2人の対局は遅くなると思って覚悟しておかないと」。他の数人の記者も「遅くなると思って」と、みな最寄りの駅で宿を取ったとのこと。さすがに皆さんわかっていらっしゃる。

 車中では、読売新聞写真部記者の若杉和希さんと話をした。藤井と伊藤匠七段との竜王戦七番勝負が10月に始まることもあり、話題は尽きない。「感想戦での藤井さん、良い笑顔でしたよね」と若杉カメラマンの言葉に「まったくですね」と2人で笑った。

 心地よい余韻を残し、陣屋の長い一日が終わった。

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